INTERPRETATION

第640回 覚悟とあきらめと幸せと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

最近は大学入学直後から就職関連のセミナーがありますよね。ピークは大学3年次で、早い学生だと秋には内定が得られます。ザ・昭和世代の私の頃は大学4年の夏が職探し開始でした。時代の変化を感じます。

私は大学卒業後から現在にいたるまで、正社員、契約社員、フリーランスを経験してきました。大卒直後はフルタイムの会社員になり、その後転職。念願かなって英国留学するも帰国後は日本経済が低迷期に直入し、仕事にありつけず。「これからどうしよう?」と迷う中、通訳学校の恩師のところへあいさつに行くと「忙しいから通訳、手伝って」と言われ、以降、フリーの通訳者として稼働するようになりました。

そしてしばらく経つとまた「イギリス行きたい病」にかかり(笑)、現地採用の仕事を探す日々が始まります。その間にも通訳は続けており、契約社員としての通訳業にも携わりました。その後、英字新聞でロンドン現地採用の仕事を偶然見つけて応募。4年勤めて帰国し、以後、フリーの放送通訳・会議通訳者として現在に至っています。

最近は世の中が多様化し、これまでのような終身雇用はなくなりつつあります。「一部上場企業に就職=主流」という時代ではなくなったのですよね。どこにも属さず、フリーという生き方も注目されています。定住地を持たず、ノマド的な働き方もアリなのです。

そこで今回は私自身が感じるフリーランスの長所・短所をお話します。まずはフリーの厳しさから。

1 体力がすべて
アスリートや芸術家同様、本番に向けて体調を整えることが必須です。「当日具合が悪くなった」では、周囲に迷惑をかけてしまうからです。どれほど他の業務が忙しかろうと、体調不良が続いていようと、依頼された業務当日に100パーセントのチカラを発揮することは当然のこととして求められます。病欠ができないのがフリーの短所です。

2 実力がすべて
お客様に対して高品質の通訳を提供することは、通訳者として大前提です。上記の体力にもつながりますが、たとえ長時間連続の同時通訳になってしまったとしても、スタミナ切れを起こさず、安定したクオリティをお届けすることが求められます。複数の通訳者と現場入りしていたとしても、業務分担をしている以上、「自分の実力が低いから相手通訳者に丸投げ」というわけにいきません。自分の実力に自分で責任を持たなければいけないのです。

3 仕事がなければ無収入
会社員には有給・病気欠勤・介護休暇などの福利厚生があります。フリーランスには存在しません。仕事をすれば収入を得られますが、空白の日は無収入です。仮案件の業務をエージェントから頂くも、もしその仕事が成立しない場合もペイにはなりません。銀行口座に入金が無いことへの覚悟も求められます。

一方、フリーのメリットもあります。

1 自分の好きなことで生きていける
通訳業務を通じて社会のお役に立てる、目の前のお客様が喜んでくださる、勉強を通じて知的好奇心を満たせるなど、この仕事を通じて得られる喜びは計り知れません。寝食を忘れて準備に没頭しながら、「世の中にはこのような世界があるのか」と、新たなテーマに触れられるのです。好きなことで人生を歩めるのは醍醐味です。

2 一期一会の世界である
業務を通じて素晴らしい方々に出会えるのもこの仕事の長所です。VIPの方々の価値観やオーラから、私自身の生き方や信念について考えさせられたことが何度もありました。一方、万が一、自分と相性が合わない方との業務であっても、フリーの場合はその方との再会は将来的にほぼあり得ません。ストレスが少ないのです。

3 心身を自分でコントロールできる
満員電車や人混みが苦手な私にとって、フリーという働き方は性に合っています。また、「この週はハードスケジュールだから、次週はオフの日を入れておこう」とあらかじめ決めることもできます。旅行計画も自分次第、ジム通いやセミナー参加などの自己研鑽も自分の都合で決められます。

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いかがでしたでしょうか?他にも長所・短所はたくさんあるのですが、特に大きな3点をご紹介しました。私にとってフリーで生きていくということは、覚悟であり、良い意味でのあきらめでもあり、それを上回る幸せでもあります。

少しでも参考になれば幸いです。

(2024年7月2日)

【今週の一冊】

「ウクライナの装飾文様」ミコラ・サモーキシュ著、巽由樹子訳、東京外国語大学出版会、2023年

ウクライナ紛争はなかなか終わる兆しが見られず、放送通訳の現場でもたびたび戦況を伝えるニュースが入ってきます。今、この瞬間に戦いが続いていると想像するたびに、「なぜ私自身はこうして空調の効いた快適な場所で生きていられるのか?」と考えてしまいます。世の無常を感じずにはいられません。

そうした中、図書館で手に取ったのが今回ご紹介する一冊です。ミコラ・サモーキシュはロシア帝国治下のウクライナに1860年に生まれた画家。戦争画も手掛けた一方、本書にある美しいデザイン画も多数制作しました。刺繍の文様スケッチ40点が掲載されています。

カラーで紹介されている本書をめくっての印象。それは、「鮮やかさ」よりも「控えめな色合い」が多い、というものでした。ロシアの支配下のウクライナを生きる画家がその空気を感じ取って色に反映させたのか、あるいは画家本人の好みなのか、これは見る者の解釈にゆだねられる部分も大きいのでしょう。

その一方で、デザインされている草花は自然の恵みであり、時代や国境を越えても「花の持つ美しさ」を鑑賞者に訴えかけます。多様な歴史を有するウクライナの過去に、サモーキシュのような芸術家が存在したということ、そして、ナショナリズムが台頭していく時代を生きた本人について垣間見ることができる一冊です。後半の解説が読みごたえ大でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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