INTERPRETATION

第638回 躊躇の理由

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私が放送通訳者としてデビューしたのは1998年でした。未経験でしたが「とにかくイギリスで働きたい!」という熱い思い(?)だけをBBCの最終面接で訴えたのが功を奏したのか・・・どうかはわかりませんが、とにもかくにも人生初のテレビ局勤務となったのでした。ちなみにそれまでの私は一度も「テレビ局の建物」にすら足を踏み入れたことがありません。小学校の社会科見学はおろか、番組公開収録などにも出かけたことがなく、BBC勤務初日が人生初の「テレビ局建物に入館」だったのでした。

さて、当時の1990年代後半というのは、ようやく世の中のデジタル化が進み、インターネットの恩恵を受けるようになったころでした。とは言え、ネット回線はとてつもなく遅く、自宅で接続にかかる電話料金もかなりの金額。翌月の電話代を気にしながらのネット利用だったのですね。BBCの職場は一人一台PCがあったのですが、「日本語のウェブサイトを読めるパソコン」は部署に1つだけ。そのPCを日本語部スタッフ全員で譲り合いながら使っていたのでした。

あれからわずか20年ほどで一人一台のスマホで何でもできる世の中になったのです。隔世の感がありますよね。本当に便利になりました。

とりわけ近年進化しているのが自動通訳・翻訳機能です。某メーカーのデバイスは、あっという間に同時通訳してくれます。しかも英日だけでなく、マイナー言語も対応可能です。この製品を使って重要記者会見のニュースを英日同時字幕翻訳をしているテレビ局もあります。

一方、ネットの翻訳機能も性能が飛躍的に向上しています。たとえば、英語のサイト上でマウスの右クリックすると、「日本語に翻訳」というメニューメッセージが出てきます。そして実際にクリックすると、そのページの英文すべてが瞬時に和訳されるのです。正確性については向上の余地があるものの、概要だけでも今スグ知りたい場合、とても便利な機能です。ちなみに先日、某英語ニュースをこの方法で右クリックしたところ、下の方の「✖」マークの隣に「崩壊」の漢字が。驚いて元の英文に直したところ、”COLLAPSE”とありました。あ、なるほど、ポップアップの部分を「閉じる」という意味だったのですね。ビックリ仰天でした!

ここ1,2年の技術進化では生成AIも目覚ましいものがあります。とりわけChatGPTです。とある調査によると、利用経験がある人は7割近くに上るそうです。私の周りでも話題になっており、色々な方から「柴原さん、使ったことある?」と聞かれます。

で、その答えなのですが、実は「いまだに未利用者」です。関心はあるのですが、どうも食指が動かないのですね。スマホのSiriやDeepL、QuillBot(文章書き換えツール)は頻繁に使うのですが、なぜかChatGPTには乗り出していないのです。そこで自分なりの理由を挙げてみました:

1 子どものころから文章を書くのが好きなので、自分の言葉を紡ぎたい

2 先にChatGPTからヒントをもらってしまうと、そこにとらわれてしまいそう

3 とにかく白紙の状態から書き上げたい。英文もあえて苦労して自力で作成したい

このような感じです。

つまり、私にとって文章を作るということは、「料理愛好家が自分で食材を買ってきて自ら調理すること」に相当するのですね。おいしいレストランでの外食や、便利なお総菜など世の中にはたくさんありますが、「それでも自分で作りたい」という思いに通じるのです。あるいは、「お掃除ロボットも便利だけど、自分で工夫して掃除したい」というケースも挙げられるでしょう。手作りが好きな人であれば、ファストファッションより自分で型紙から洋服を作る、という感じです。

私の場合、ChatGPT未体験なので、長所を何も知らないまま、単なる食わず嫌いなのかもしれません。でも、ウンウン唸りながら自分の頭で考える瞬間自体をこれから先も楽しめそうな気がしています。これが「躊躇の理由」です。

(2024年6月18日)

【今週の一冊】

「『ズルさ』のすすめ」佐藤優著、青春新書インテリジェンス、2014年

佐藤優さんの本は好きでこれまでもずいぶん読んできました。今までで印象的だった一冊は、氏が埼玉県立浦和高校1年生の夏休みに単身でソ連・東欧を旅したことを記した「十五の夏(上・下)」(幻冬舎、2018年)です。1975年という、まだ冷戦まっただ中の時代にたった一人で旅したという内容に惹かれました。

さて、今回ご紹介するのは月刊「BIG tomorrow」に連載されていたものに加筆・再構成したもの。今から10年前の発行ですが、現在でも十分通じるヒントが満載です。「ズルさ」というと狡猾なイメージですが、そうではありません。混沌とした現代を生き延びる上でのアイデアが綴られているのです。周囲を見つつ、自分の軸を持って生きることは、大切なのですよね。

全11章からなる本書は、「人と比べない」「時間に追われない」「約束を破らない」などの章立てになっています。そしてそれぞれに佐藤氏本人のエピソードや参考文献も盛り込まれています。

中でも興味深かったのが第10章「人を見た目で判断しない」にあった「スーツ姿に弱い日本人」という一文。スーツや制服など、その外見だけで「この人は信用できる」と、つい私たちは思いがちです。しかし佐藤氏いわく、意外と「怪しい人、ヤバい人ほどキチンとした格好をする傾向がある」(p180)とのこと。相手を安心させる手口でもあるのですね。

見かけは大事ですが、それ「だけ」に惑わされず、自分の判断基準を研ぎ澄ませること。その大切さを本書から学びました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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