第637回 一人反省会
黒柳徹子さんの名言「反省は母親の胎内に忘れてきた」は有名ですよね。もちろん、長年活躍されてきた徹子さんですので、反省そのものはなさっておられることでしょう。でも、「いつまでもクヨクヨ悩まず、前に進む」というメッセージなのでは、と私は想像しています。
さて、私は日ごろ通訳の指導をしているのですが、よく受ける質問の中に、
「同時通訳をしていて、もし訳語が出てこなかったらどうしますか?」
があります。確かに同時通訳の場合、止まって辞書を調べる時間的余裕はありませんし、あまり長く考えすぎると、その間に次々と新たな情報が耳から入ってきます。そちらを訳さなくては置いてけぼりになってしまうのです。
対処法はいくつかあります。まず、同時通訳ブースに複数の通訳者がいる場合は、お互いにサポートすることができます。隣の通訳者が訳語を書いたメモをサッと手渡す、という具合。たとえば数字を聞き落としたとか、固有名詞が聞き取れなかったなどの場合、横から素早く助けて頂けると本当に助かります。
でも、そのサポートが無い場合は?
はい、そういう状況があるのです。特に私が日ごろ携わる放送通訳現場がそうです。CNNの場合は30分間を一人で担当するため、ブースに入るのも自分だけ。くしゃみもお手洗いも咳き込むこともNGですので、とにかく0.5時間を単身で克服せねばなりません。では、不明単語があった場合、どう切り抜けるのでしょうか?
例えば”The U.S. President Joe Biden …”という文章が聞こえてきたとします。画面にはバイデン大統領が映し出されています。正しくは「アメリカのバイデン大統領」ですよね。ちなみに日本のメディアは下の名前(Joe)を報道しないため、私はそれに則り、和訳も名字だけにして省エネを図っています。さすがにバイデン大統領は有名ですので、よほどのことが無い限り、訳し漏れは無いでしょう。でも、同時通訳中に万が一度忘れした場合の乗り切り方が、以下の通りとなります:
「アメリカの大統領」
「アメリカのトップ」
「アメリカの首脳」
「アメリカの要人」
・・・このような具合です。内容によっては「アメリカ政府」とひとくくりにすることもあります。一方、「日ごろさほど話題にならないトピック。だけど今回は重要。でも固有名詞がわからない!」となれば、画面を見ながら「こちらの男性(女性)は・・・」など、画面に合わせて「情景描写」することもあるのですよね。
ただ、このままで終わってしまえば、実力向上を目指すことができません。そこで私がおこなっているのが「一人反省会」。聞き取れなかった単語を録画で見直したり、情報をネットで調べたり、などです。「今日はうまく行かなかった」というくやしさをバネに、次へつなげていくためです。調べたことはノートに書き留めておきます。この「一人反省会」は業務終了後、なるべく早いうちにおこない、内容によっては、仕事からの帰路、自宅近くの最寄り駅に着くまで続けます。
ただ、大事なのは「最寄り駅に到着したら、反省会終了」にすること。なぜなら、ズルズルと引きずっても気分が滅入るだけだからです。駅に着いて電車のドアが開いたら「反省会終わり!」と心の中で唱え、下車します。
同時通訳の場合、とにかく時間は瞬く間に過ぎていきます。その場足踏みで立ち止まってしまえば、先に進めません。それどころか、さらなる一大事を引き起こしてしまうのですよね。よって、とことん反省したら気持ちを切り替えるに限ります。
通訳という仕事はある意味、人生そのものに似ているなあと私は感じます。
「その瞬間は最大限の努力を払う」
「でもうまく行かなかったら、反省する」
「そして教訓を得て、同じミスをしないよう心に誓う」
ということです。私がこの仕事に魅了されているのも、ある意味、生き方に通じるからなのかもしれません。
(2024年6月11日)
【今週の一冊】
「名画の中の料理」メアリー・アン・カウズ著、富原まさ江訳、エクスナレッジ、2018年
私が指導している大学の図書館にはレシピ本も配架されています。そこで見つけたのが今回ご紹介する一冊。世界の名画の中に描かれている「食事」をテーマにしたものです。著者のカウズ氏は比較文学の教授です。
絵画の中でとらえられている食、と聞いて私が思い浮かべるのはゴッホの「ジャガイモを食べる人々」です。しかし、本書はそうした有名作品よりも、むしろあまり私たちが目にしない一品を取り上げています。画家は有名でも、日本の絵画展で展示されない一枚がこうして一冊に納められているのは、実に貴重なのですよね。
本書は「前菜」「肉」「魚」などとコース料理のごとく、章立てされています。巻末は「デザート」です。1995年ごろに描かれたジェフ・クーンズの「ケーキ」という作品にはスポンジケーキがアップで表されています。ただ、ここで使われているピンクのアイシングシュガーは、西洋ならではの鮮やかさ。日本ならもう少し控えめな色なのではと感じました。
著者のエッセイはもちろん、おいしそうなレシピや詩、楽譜など、バラエティ豊かな一冊に仕上がっています。私たちが毎日食べているものも、アーティスト視点からとらえてみると、芸術につながるのでしょうね。
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