第619回 「オデッサ」を観劇して
先日、池袋の劇場で三谷幸喜作「オデッサ」を観てきました。
この作品を知ったのは偶然でした。読売新聞に三谷さんのインタビューが出ており、「オデッサ」のテーマは「通訳」、と書かれていたのです。この仕事に携わる私としては、ぜひとも観劇したいと思い立ち、出かけました。
詳細はオフィシャルサイトなどに譲りますが、私が本作を通じて考えたこと。それは「通訳者がどこまで介入できるか」というテーマでした。実はこれ自体、昔から通訳業界内で議論されてきているのですね。私たち通訳者は「何も足さず何も引かず」を原則として訳しています。しかし、本当にそれ「だけ」で良いのか、通訳者誰もが悩むことでもあるのです。
「オデッサ」に出てくる通訳者は、自らの直感から通訳時に「介入」を選びます。通訳者の職業倫理としては、あってはならないことでしょう。しかし、介入せずにはおられない気持ちからそうしてしまう。本作ではそれがかなり大胆に描かれています。
通訳者は「話者の意図をくみ取り、目的言語に正確に訳すこと」が仕事です。似たような職業に「音楽家」が挙げられます。作曲家の思いが楽譜に込められており、演奏家はそれを忠実に再現します。ソリストや指揮者は楽譜の読み込みはもちろんのこと、作曲家が生きた時代などの背景までリサーチし、楽器の性質を理解し、一つ一つの音符に潜んでいる作曲家の意図をくみ取ろうとするのです。
しかし音楽の場合、演奏家によって奏でられるメロディは異なります。音符自体は同じですが、弾き方によって醸し出されるニュアンスもそれぞれ。動画サイトなどには同じ楽曲の聴き比べがアップされており、それらを聴いてみると、演奏家や指揮者によってかなりの違いを感じます。何百年も前に作られた曲の場合はオリジナル音声が残っていませんので、楽譜しか頼りになるものがありません。よって、今の時代の演奏の際に多様性が出てくるのも頷けます。演奏家なりの「介入」がある、ということだと私は思うのですね。
では通訳者の場合は?
極端な意訳や誤訳はいただけませんが、聴衆にとって一番理解しやすい訳出をすることが、実は大事なのではと私は感じています。話者の意図を損なうことなく、コンパクトで効果的かつ伝わりやすい訳語を考え抜き、瞬時に選ぶこと。それが通訳者の使命だと私は思っているのですね。
指揮者の藤岡幸夫さんは、
「いくら演奏していて自分が良いと思っても、聞き手が良いと思わなかったらダメ」
と述べています。演奏家がひとりよがりになってはいけない、という意味です。これは通訳者にも大いに当てはまります。このことを改めて感じた「オデッサ」鑑賞でした。
なお、「オデッサ」は笑いの要素もたくさんあり、最後の大どんでん返しは圧巻!急転直下の大展開に聴衆は惹きこまれます。東京公演は1月末で終わりましたが、次は地方公演とのこと。ぜひとも近いうちに再演してほしい、素晴らしき三谷作品です。
(2024年1月30日)
【今週の一冊】
「子米朝」桂米團治著、ポプラ社、2008年
今回ご紹介するのは上方落語・桂米團治さんの一冊。米團治さんはかつて「小米朝」というお名前で活躍しておられました。そう、あの人間国宝・桂米朝の御子息でもあるのです。
私が米團治さんを知ったのはひょんなきっかけでした。しんどいことがちょっと重なっていた日々、何とか気分を上げたいなと思って観始めたのが日テレの「笑点」。そこに円楽師匠のピンチヒッターとして出ておられたのでした。トークが実に楽しく、プロフィールを調べると、クラシック音楽が趣味とのこと。しかもオペラと落語を合体させた「おぺらくご」という活動をなさっているそうです。「これはいつか噺を聴きに行かねば!」と思っていたところ、その数か月後に京都南座で米朝一門会があり、早速遠征。さらに昨年末には山形で野村萬斎演出・シュトラウス作オペレッタ「こうもり」にも出ておられました。どちらも心が本当にウキウキと楽しくなる、そんな時間を過ごせました。
本書は米團治さんの生い立ちから落語家として活躍されるまでが書かれている自叙伝です。中でも非常に興味深かったのは、米團治さんが通訳者に憧れておられたというくだり。米團治さんはサッカー少年であり、高2のときにスポーツ少年団の遠征でドイツへいらしたそうです。その足でザルツブルクへ向かい、モーツアルトの生家を訪問。それを機にモーツアルトへの関心を高め、NHKドイツ語講座を聴き始め、通訳という仕事に関心を抱くようになった、とありました。
米團治さんの落語からは、ことばへの愛と美しさが現れています。きっと音楽やことばをつかさどる通訳業への興味が根底にあるのでは、と私は勝手に拝察しています。
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