INTERPRETATION

第617回 卒業しよう

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

かつてBBCで駆け出しの放送通訳者として働いていた頃、私は単語リストとテーマ別資料スクラップをしていました。ニュースという性質柄、カバーするテーマも多様。「アメリカ大統領選挙」「イギリス情勢」「ヨーロッパ問題」「軍事」「医療」という具合です。当時はまだインターネットが主流でなく、職場のPC1台だけが日本語のネット対応でした。よって情報源はロンドンで購読していた日経新聞。衛星版ゆえ割高でしたが、背に腹はかえられず。自腹で購入し、隅から隅まで読んでいました。日常生活が英語環境でしたので、日本語の活字は嬉しかったですね。大切に読みつつ、必要な記事を切り抜き、専門用語を集めては辞書で英訳を調べ、単語リストを作っていました。

勉強というのは、すればするほど実力につながります。日々の放送通訳現場で、調べたことが出てきたり、単語リストが威力を発揮したりしてくれると、大いなる達成感を抱きました。それが次への学びの原動力となり、単語リストとスクラップは爆発的に増えていったのです。

しかしある日のこと。職場ロッカーにそれらが入りきらなくなりました。しかも、ニュースの場合、テーマは重複します。たとえば「クリントン大統領・弾劾裁判」は、「アメリカの法制度」ファイルに入れるべきか、「アメリカ政治」の方かと悩んでしまったのですね。そこで意を決しました。「私の頭の中に入っていることだけを重視しよう。これらのファイルから卒業しよう」と思い、すべて処分したのです。自分の筆跡が残された勉強の痕跡を捨てるのは忍びなくもありました。でも、実際のところ、作成はしたけれど見返すことは少なかったのですね。

現在私は会議通訳にも携わっており、案件ごとに単語リストや資料を作成しています。毎回かなりの量です。かつてオール手書きだった単語リストはエクセルに変わりましたが、印刷して現場に持参。PCにも保存しています。そして、業務終了後にはA4封筒に入れてファイリング。これをずっと続けているのです。

けれども、類似案件を後に仰せつかった際、過去の資料を見直しているかと言えば、答えは「ノー」。つまり、ストックしたまま、見返すことはないのです。パソコンに保存しているエクセル単語リストも同じ。まったく開かないのですね。

つまり、「過去の業務は過去のもの」であり、私の脳内に単語や情報が残っていればラッキー。そうでなければ一から学び直す方が手っ取り早いのです。どうしても再読する必要があれば、手を付けていたはず。でも、それが無いということは、やはり自分は過去から「卒業」したと思えるのです。

断捨離提唱者・やましたひでこさんは「モノを大事にするってことは、使ってあげること」と述べています。単語リストも資料も、使ってあげるのであれば保存すべきでしょう。そうでないなら、手放しても構わないのです。

これは人間関係にも言えます。同じ方向を見ていた同志でも、いつかそれぞれが別の道を歩む日が来るかもしれません。過去に執着せず、手放す瞬間が到来することは、モノでも人でも起こりうるのです。

住職で精神科医の川野泰周さんは、「今」に集中することが不安や雑念を取り払ってくれる、と述べています。仕事も人間関係も同様だと私は感じています。

(2024年1月16日)

【今週の一冊】

「京都の洋館」石川祐一(著)、神崎順一(写真)、光村推古書院、2016年

京都というと神社仏閣のイメージが強いですが、私のお気に入りはもっぱら「洋館」。実は戦火を免れて多くの近代建築が残されています。市役所などの公共施設はもちろん、大学や宗教施設、商業ビルや個人宅もあるのですね。そうした洋館を巡り歩くのが大好きです。

ペリー来航を経て日本が開国したのが1854年。その20年後あたりから京都では多くの洋風建築が建てられました。本書はカラー写真と共にそれぞれの建物の解説がなされています。外観はもちろん、階段やマントルピース、天井装飾などの細部も知ることができます。京都の洋風建築に尽力したのは、当時、京都帝国大学(現在の京都大学)建築学科で指導していた武田五一や藤井厚二たちであり、彼らの指導を仰いだ京都の地元工務店でした。

中でも私のお気に入りは、八坂神社の敷地内にある長楽館。もともと煙草王・村井吉兵衛の別邸でした。1Fにはかつてビリヤード室として使われた「球戯の間」があり、現在はカフェになっています。数年前の旅で私はおいしいスイーツセットを頂きました。一方、旧京都中央電話局上分局は現在1Fがスーパー、2Fにはスポーツクラブが入っています。私はそのジムの全国会員なので、内装見たさにわざわざレッスン参加に出かけたほどでした!

一味違った京都を楽しみたい方にとって、大いに参考になる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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