INTERPRETATION

第612回 一生続くドキドキ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

・・・というタイトルですが、別に恋愛話ではありません、念のため。「通訳業界あるある」系のストーリーです。

先日、国際会議同時通訳の仕事を請け負いました。通訳業務にずいぶん長く携わってきましたが、今回改めて「あること」に意識を向けたのです。それは「自分の心拍数や心理状態」です。

まず、通訳業務依頼から当日までをざっと説明しましょう。通訳者はエージェント(人材派遣会社)から仕事をあてがわれます。今回の仕事は2カ月前に頼まれました。テーマもその時点で聞いています。よって、当日までの8週間、そのトピックについて予習するには十分時間がありますよね。

しかし!他の業務やら日常の雑事やらでなかなか手つかずに。頭の中では「少しずつ調べねば」との思いはあります。でも、つい後回しになってしまう。脳内言い訳としては「もう少し具体的な内容がわかってからの方が効率的に予習できるし」というもの。さっさと基礎知識習得から始めればよいのにも関わらず、です。

という具合で日数が経過。具体的な資料が届いたのは3日前でした。さあ、いよいよエンジン作動となります。話者の講演原稿、動画、スライドなど膨大な量が届いています。そこから一気に準備開始です。それまで取り組まなかった時間を取り戻さなければなりませんので、俄然、集中力を200パーセント出さねばと内心焦ります。ただ私の場合、これがかえって良いのかもしれないとも思っています。当日まであとわずかですが、その分徹底的に脳内に叩き込むので、中だるみで忘れたりすることを防げるからです。

なお、こうしてひたすら脇目も降らずに勉強していると、当然ながら心拍数は上がります。普段の私は聴覚過敏でメールも頻繁に確認するタイプ。しかし、資料到着後から本番まではタイムリミットがあるため、ここまでくると周りの騒音は気にならなくなるのです。メールやLINEも時間を決めて確認し、返信するようになります。

そのような準備を経ていよいよ当日。朝からドキドキしています。頭の中では「うーん、やはりもっと早く準備しておけばよかったかも」という後悔の念も出てきますが、今更仕方がありません。そして道中の心拍数はさらに急ピッチに。早めに会場近く最寄り駅に到着し、カフェで心を落ち着かせますが、持参した単語リストや資料を眺めても、「本当にちゃんと訳せるだろうか?」という不安が頭をよぎります。

さあ、時間となりました。会場入りです。担当者・講演者と打ち合わせをしている自分は笑顔を意識していますが、心臓はバクバクです。マイクのスイッチを入れるその瞬間まで「どーしよー?」と思ったりもします。しかし、いざマイクをONにしたら、「うまく行くはず!さあ、始めるぞ!!」とギアが入るのですね。あ、いや、正確には「入らざるを得ないのです」というところでしょう・・・。

あとは無我夢中で同時通訳をするだけ。そして何やかんやで業務終了。パートナー通訳者同様、同通ブースの椅子の背もたれに体を預けて、首肩背中のこわばりを一気に弛緩させます。訳し漏れはあったかもしれないですし、声のトーンやスピードなど振り返れば色々と反省点はあるでしょう。でも、とりあえずは「お疲れ様」の瞬間です。

おそらく音楽家が舞台で演奏するときもスポーツ選手が試合に出ているときも、きっとこのような感覚なのだと思います。本番までのドキドキ感、本番中のアドレナリン保持、終了してからの放心状態など、肉体に及ぼす影響はあるはずです。

「通訳業は着席型体育会系」と称する私にとって、一生続く業務上のドキドキをどう整えていくか。まだまだ試行錯誤は続きます。

(2023年12月5日)

【今週の一冊】

「ことりっぷ奈良・飛鳥」昭文社旅行ガイドブック編集部(編集)、昭文社、2021年

先日、奈良まで出かけてきました。お目当ては神社仏閣、ではなく、「ラジオ体操2級指導士」の受験!全国各地で実施しているのですが、奈良会場ではテレビやラジオでおなじみの先生方が勢ぞろい。推し活的(?)動機で出かけたのでした。ちなみに検定試験の方は超難問。他の受験生の前で模擬技術指導もありました。通訳現場以上に緊張しましたね。

さて、今回ご紹介する一冊はその奈良に関するもの。自宅を少し早めに出発する予定でしたので、わずかでも観光はしたかったのです。時間に限りがあったため、今回照準を合わせたのは「志賀直哉旧居」。文学者がどのような家に暮らし、どういった環境で執筆したかに私は興味があったためです。実際に訪ねてみると建物は洋風・和風の要素を取り入れており、美しいものでした。お勧めです。

帰宅後に改めて本書を開いてみると、歩いた道や通りがかったお店などが出ていました。ガイドブックというのは「事前に読む」印象ですが、実は「復習」として眺めるのも楽しいですね。旅気分を改めて味わい、思い出す幸せに浸ることができました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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