INTERPRETATION

第142回 次へのご縁ととらえる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

先日、知り合いから聞いた話です。

この方は社内通訳者として、ある企業で働いていました。仕事を始めてから数年が経ち、ようやく会社内のことや業務にも慣れてきたところだったと言います。ところがある日突然、解雇通知を言い渡されたのだそうです。業務再編成が行われ、通訳者の仕事も見直されたと言います。まったく想像していなかっただけに、1通の手紙だけであっさりと知らされた時にはさすがに落ち込んだと語っていました。

安倍政権が誕生して以来、アベノミクスが打ち出され、新聞にも業績回復との見出しが躍るようになりました。しかし、すべての企業が喜びに沸いているわけでもありません。状況の改善へと歩みつつも、まだまだ厳しい環境に置かれているところもあるようです。

しかし、この知人はその書状を受け取った後、すぐに気持ちを切り替えたと語ります。「人生とはこういうもの」と達観し、この一件を「新しいことへ踏み出すための第一歩」ととらえたのだそうです。

社内通訳の仕事は、知り合いの方の紹介によるものでした。そこで今度はすべて自力で、自分の実力だけで仕事を獲得しようと考えたと言います。しがらみもなくなりましたので、自由に就職活動ができます。これまでの仕事を振り返り、自己の強みは何か、どういう分野において組織に貢献できるかを見直したと語っていました。その後、素早く動き始め、今は別の組織からの採用結果を待っているのだそうです。

一つの組織に属していると、ずっと続けられるような感覚になります。特に日本の場合はよほどのことがない限り解雇されないという伝統がありました。真面目に仕事に取り組んでいれば、上司や周囲が評価してくれる、そんな時代の名残もまだ残されているのです。

しかしその一方で、雇用形態もここ20年ほどで変わってきたのも事実です。能力給が導入され、転職に対する世間の目も以前ほど厳しくなくなりました。働き甲斐を求めて仕事を変え、少しずつステップアップするというあり方も見られるようになったのです。

私の場合、組織の社員として働いた年数よりも、フリーランスでの時期の方が今や長くなっています。どちらの形態も長所・短所あります。安定や社会保障という意味では企業の一員の方に軍配があがります。その一方で、ライフステージに応じて仕事の量を調節し、ラッシュアワーや仕事上の人間関係といったストレスから比較的自由になれるのはフリーランスの強みです。結局のところ、自分がどのような人生を歩みたいのかという、いわば人生観に基づいて選択するものと私はとらえています。

先の知り合いはこうも述べていました。「通知を読んだときは確かにへこんだ。でもこの仕事にありつくことができたのは、紹介してくださった方のおかげ。会社側が解雇通知を早めに出してくれたからこそ、自分も迅速に次の行動に出ることができた」と。

自分に降りかかった出来事に圧倒されたままでは、そのエネルギーに押しつぶされてしまうでしょう。けれどもそれを「次へのご縁」と考えると、パワーが出てくるのではないか。

そんなことを私は思いました。

(2013年12月2日)

【今週の一冊】

「まちモジ」小林章著、グラフィック社、2013年

仕事柄のせいなのか、「ことば」にまつわるものには関心がある。食品パッケージの原材料名や企業名などはついつい読んでしまうし、出張先で購入したお土産の英語表記にツッコミを入れてみたりと、相当の活字依存状態だ。

文章や単語だけでは飽き足らず、文字が書かれている素材、つまり紙やプラスチックなども味わう方だ。勤め先でコピー用紙にも微妙に色の違いがあることに「おもしろい!」と内心つぶやいてしまうこともしょっちゅう。道を歩きながら「ナンバープレートの平仮名は、どういうフォントなのだろう?」としげしげ眺めることもある。

というわけで今回ご紹介するのは「まちモジ」という本。オビには「日本の看板文字はなぜ丸ゴシックが多いのか?」とある。中学時代に美術の時間で「明朝体」の練習をさんざんやらされたことはあるが、ではなぜ、世の中はゴシックの方が多いのだろうと思ったのが本書を買った動機である。

著者の小林章氏は現在ドイツ在住。書体の品質管理や自らがデザインした書体を発表する傍ら、講演やコンテストの審査員にも従事している。小林氏が世界をめぐりながら集めた文字が本書にはカラー写真で掲載されており、パラパラとめくるだけでも楽しい。同じ世界旅行でも、こうしたテーマを設けるのも有意義だと思う。

ところで興味深かったエピソードをひとつ。氏がドイツに留学中、ドイツ語のクラスでディクテーションをした際、比較的苦労せずに書き取りができたという話だ。以下が小林氏の感想である。

「言語を習得するのに、耳や口で覚える人と、単語の形を見て視覚で覚える人がいるんじゃないか。」

つまり小林氏はデザインに携わっていたことから、単語の「形」を頭に焼き付けて語学学習に励んだことになる。

「視覚で覚える人は、単語の形が頭に入っているからスペルを間違えにくいし、かりに間違えても、単語の形がおかしいとすぐに気づいて直せる。」

このように述懐している。こうした視点からの語学習得というのも実に興味深い。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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