INTERPRETATION

第604回 自分トリセツ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私が通訳者デビューした当時と比べると、世の中は大いに変わってきています。順不同で挙げると、

*自動翻訳通訳の台頭。DeepLやポケトークなどなど。テレビ局でさえ、放送通訳者ではなく、「AI通訳」を活用しているところが出てきている
*日本経済の変化。バブル華やかなりしころは、通訳者もグリーン車やビジネスクラスで移動。お客様同様、VIPフロアの宿泊も。空港へのお客様お迎えは高級車(もっとも、通訳者は『お供』としての乗車ですが)
*雑誌の英語特集の変化。かつての雑誌と言えば「ダイエット、片付け、英語学習」が三大特集と言われていたが、最近は雑誌自体が廃刊になっている。英語もわざわざ大変な思いをしなくても、AIがある

このような感じでしょうか。

駆け出しのころを振り返ってみると、とにかく自分のレベルを上げる、つまり「商品価値」をアップさせることが必須でした。何しろまだ日本のビジネスパーソンの英語話者率も低かったのです。今、現役でビジネスを回しておられる方の多くが帰国子女や海外留学経験者ですので、通訳者を必要としなくなってきた、というのも時代の流れですよね。

ということで、私が駆け出しのころは英語力・通訳力を向上させるうえで「勉強」が日常生活の一部でした。また、デビューほやほやならば「依頼される業務は一通り受けること」も鉄則。フリーランスの場合、「断れば二度と仕事が来ないかも」という恐怖心があります。ですので、「難易度が多少高くても頑張ってお受けする、そして当日まで必死になって勉強する」というサイクルだったのですね。

未知の分野に出会えるという意味で、この仕事は私にとっては実に楽しく、好奇心を常に満たしてくれるかけがえのないキャリアとなりました。報酬を得て仕事をするというよりも、自分にとっての生きがいになっていったのです。たとえプライベートで悩みや迷いに直面したとしても、仕事や勉強をしていれば、そうした辛さは忘れることができます。自分の心身を支えてくれた「相棒」とも言えるでしょう。

そして今、人生の折り返し地点を過ぎた私は、これからどのようにして仕事と向き合うかも考え始めています。AI通訳技術が飛躍的に向上した昨今、記憶力だけで私が太刀打ちすることはできないでしょう。ゆえに「人間通訳者としてできることは何か?」「お客様のお役に立つにはどのようにすれば良いか?」が課題となっています。

これらを考えることは、自分自身の生き方を見つめ直すことでもあります。若かりしころのように「来る仕事すべて」をガムシャラに受ける体力は、少しずつ失われています。得意・不得意分野も見えてきています。自分のチカラが一番発揮できる業務のために体力と心のバランスを整えていく必要があると思うのです。それは、スポーツ選手があらゆる大会に出場しないのと同様であり、音楽家がすべてのコンクールに出ないのと同じです。

そこで私が考えたのは「自分トリセツ」の作成。ノートに自分の得意分野を書き出してみました。また、どの時間帯の業務であれば一番集中力が高いか、業務日の前はどれぐらいの準備時間を望むか、仕事後の脳リラックスには何が効果的なのか、といったことも列記してみたのですね。書いた内容を改めて見てみると、自分の傾向が浮かび上がってきます。

カラダは有限です。だからこそ、自分トリセツを意識しながら、これからも元気に仕事に臨みたいと思っています。

(2023年10月3日)

【今週の一冊】

「画家とモデル:宿命の出会い」中野京子著、新潮社、2020年

書籍の読み方に正解は無い、というのが私の考え。昔は「せっかく買ったから全部読まねば」という強迫観念だらけでしたが、図書館で借りるようになり、気が楽に。興味のある個所を「自分から探しに行く感覚」で読むと、気負わずに楽しく読めます。

本書は「怖い絵」シリーズが大ブームとなったドイツ文学者・中野京子氏による一冊。画家がそのモデルとどのようなエピソードを有しているかが綴られています。

私自身、絵画鑑賞は好きですが、さほど詳しいわけにあらず。よって、本書も「知っている画家の章」を重点的に読みました。中でも印象的だったのが、アメリカの画家サージェント。日本でも人気です。昔は学校に通わず、ホームスクーリングの師弟も多く、サージェントも両親の方針として一家を挙げて世界中を旅するという生活スタイル。よって、親から学びを得ていたのですね。

氏の絵画自体も印象的ですが、むしろ興味深かったのは顧客から見たサージェントが、

「実物の三割アップで仕上げてくれる」(p15)

という描写での完成手法。いわゆる「盛り」や「加工」は19世紀からあったのです。

今後美術館で絵画を見る際には、「果たしてこれはどれぐらい盛られているのか??」という視点で観てもおもしろいと思います。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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