INTERPRETATION

第603回 応援寄付

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

以前、こんなことがありました。

とある演目を観たくて何カ月も前にチケットを購入。前評判が高い作品でしたので、観に行こうと意気込んでいました。チケット代も割と良いお値段です。ところがその後、国際会議の同時通訳業務を依頼されたのです。日にちは「観劇日の翌日」。通訳内容は私の好きな分野でしたので、迷わずお引き受けしました。かなり大規模なフォーラムで、通訳者2名体制です。

で、ここからがよくある話。国際会議当日の資料がなかなか来ないのです。セミナー登壇者は複数。いずれもギリギリまでスライドやプレゼン内容を練っておられるので、私としてもわかります。ただ、通訳者の立場としては、できるだけ早く資料は頂きたい。予習をして単語リストを作成し、関連文献を読んだりネット動画を観たりとやることがたくさんあるからです。

そしていよいよ観劇日まであと数日。つまり、通訳本番までも残すところわずかとなりました。が、相変わらずの状態。劇は観たいけれど、予習も気になります。私の場合、通訳の仕事がとても好きなので、予習を「せねば(=must)」と言うよりも、「予習をしたい(=want to)」という感じです。

セミナー2日前。嵐のようにスライドが一気に到着しました。しかもページ数は重量級。さあ、これを読み込んで訳して単語リストを作って・・・となると時間が必要です。JRの誘客キャンペーン「ガタガタ言うなよ!これがニイガタ!!」のごとく、ガタガタ言うより予習、となります。

せっせと勉強を進めていくと・・・案の定、時間が足りない。そしていざ観劇日になりました。私のアタマの中はこんな感じ:

「とにかく自宅出発時間まで頑張って予習して、劇に行こう!残りの勉強は帰宅後」
「でも、通訳業務日は早朝の出発なのよね。予習不足だと困るなあ。寝不足は避けたいし」
「第一、せっかく興味ある分野の予習だし、今ちょうど興が乗ってきたのよね。もっと予習したいなあ。どうしよう?」
「とりあえずギリまで粘って出かけよう。劇は、万が一イマイチと思ったら、休憩時間で引き上げよう」

このような感じで逡巡します。迷いつつも必死になって予習は続けつつ、出発時間を知らせるためアラームをかけておきました。

そしていざアラーム音が。「さあ、どうする?」

この日の私の結論は、

「劇は見送って予習に専念しよう」

というものでした。通訳勉強が嫌でたまらなければ、劇に迷いなく出かけた事でしょう。でも、学びが楽しいし何よりも「精一杯勉強して、明日の聴衆の皆様に満足していただきたい」という思いの方が強かったのですね。とあれば、劇を諦めても悔いはないはずです。

実はこのようなパターン、結構あります(冷汗)。せっかく購入したのに空席にしてしまうのは演者の方々に申し訳ないですし、もしチケットを買いそびれた方がおられれば本当に悪いことをしてしまったと感じます。このような時のために、リセール機能を活用すべきなのですよね。

でも、「観に行きたい」という思いがギリギリまで存在したのも事実。ですのでホールに赴くことができなくても、これは私からの「応援寄付」という位置づけにしたいなと思います。

仕事・勉強をとるか、感動をとるかは実に迷うところです。でも、私にとっては「仕事からの感動」も人一倍大きい。よって、当日お役に立てるべくギリギリまで予習をしたいと感じるのです。

(2023年9月26日)

【今週の一冊】

「続 音楽はお好きですか?」藤岡幸夫著、敬文舎、2021年

数週間前にご紹介した指揮者・藤岡幸夫さんの第二弾。ご本人曰く、コロナ禍だったからこそ、本書の執筆に励むことができたのだとか。今は様々なオーケストラとの演奏やテレビ番組などで各地を飛び回っておられます。

前作同様、続編も実に読みごたえがありました。特に興味深かったのが、イギリスデビューを果たすまでのエピソード。ちょうど私がロンドンに留学していた時期と重なるだけに、より親近感を覚えました。あの時代はまだインターネットも普及しておらず、日本食や日本関連のグッズも入手できなかったころ。そうした中、ロンドンではなく、マンチェスターで過ごしておられた藤岡ご夫妻は、きっとご苦労も多かったことと想像します。

私の場合は修士論文執筆という悲壮感漂う(?)日々を過ごしていましたので、その現実逃避としてロンドンのコンサートがありました。Royal Festival Hall, Barbican, Royal Albert Hall, Wigmore Hallというコンサートホールで夜の数時間音楽を聴くことは、苦しい大学院生活から目をそらす唯一の時間だったのですね。その時期に藤岡さんは指揮者になるための勉強を続けられ、本書ではその修業時代を実に懐かしく慈しむように綴っておられます。

現在はクラシック音楽をより多くの人に楽しんで愛してもらいたいとの思いで活動を続ける藤岡さん。とりわけ邦人作品の演奏にも力を入れておられます。私自身、これまでなじみのある西洋音楽ばかりでしたので、本書を通じて日本の作曲家にも関心を抱き始めています。

巻末にはマエストロお勧めのCDやDVDも。通の方にも初心者にもぜひ読んで頂きたい一冊です。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END