第141回 マリス・ヤンソンスのこと
みなさんにとって「あこがれの人」はいらっしゃいますか?
応援している俳優や歌手がいる。サッカーが好きなので、ある選手については何でも知っているなど、「この人のことなら詳しい」という対象がいる方も多いのではないでしょうか。
私はこれまで読書や実生活を通じて、尊敬する方に巡り合うことができました。直接お目にかかったことがなく、その人のことを知ったときにはすでに鬼籍に入っていたというケースもあります。
たとえば乳がんで亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんからは、限られた時間をいかに大切にして仕事に取り組むかを学びました。精神科医・神谷美恵子先生の著作からは、周囲への感謝と使命感を持って尽くすことを感じました。現在、青森でご活躍中の佐藤初女先生は、手作りの食事で心に悩みを抱えるえる人を支えておられます。先生からは、「ありのままを受け入れる」という大切な考えを教えていただきました。この3名は私にとってあこがれの女性です。
他にも尊敬する方がいます。特にここ20年ほどフォローしているのがマリス・ヤンソンスという指揮者です。先週にはオランダのロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団を率いて来日公演を行いました。
初めてヤンソンスの振りを見たのは、ロンドンに留学中の1993年でした。大学院での慣れない生活、厳しい授業、そして執筆が全く進まない修士論文を目の前にして、私はかなり鬱々としていました。唯一現実から逃れられるのが、学生料金で聞けるクラシックコンサートだったのです。
私は「気分転換」という言い訳で学究生活から現実逃避すべく、ずいぶんコンサートに足を運びました。公演時間はいずれも2時間ほど。その120分ほどは私に音楽による癒しや喜びが与えられる時間でした。
そのような中、たまたま出かけたロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮していたのが客演指揮者のヤンソンスだったのです。
それまで私はクラシックコンサートであまり指揮者「だけ」を注目したことはありませんでした。演奏中は指揮者の振りを見たり、楽団員の動きをとらえたり、あるいは眠気に襲われて目をつぶってしまったりという感じでした。どちらかと言えば注意力散漫の鑑賞だったのです。
しかしヤンソンスの指揮に私は釘付けになったのです。一つ一つの動きが優雅で美しく、しかも楽団員誰もが花を持たせてもらえるような、そんな振りでした。今まで何気なく聞いていた同じ曲も、ヤンソンスの指揮棒の動きを追っていると、「あの旋律ではあのパートが生かされているのか」と気付くことができるのです。音楽が秘める力を最大限引き出し、聴衆に提示する。そのようなヤンソンスの音楽作りに私は魅了され、勇気をもらうことができたのです。
修士論文と最終試験を何とか終えた私は、ヤンソンスについて調べようと動き始めました。当時はインターネットがなかった時代です。CDのライナーノーツに書かれているプロフィールはどれもほとんど同じでしたので、ロンドン市内にあるナショナル・サウンド・アーカイブという資料館へ出かけました。ここは大英図書館付属の施設で、音声に関するあらゆる記録が保管されています。私は連日そこに通いつめ、ヤンソンスが出演したラジオ番組やインタビューなどを片端から聞きました。
ラトビア出身のヤンソンスの英語は癖があり、当初は理解に苦労しましたが、聞き進めるにつれて彼の人柄や価値観が見えてきました。そこで分かったのは、ヤンソンスが目の前の仕事を一つ一つ丁寧におこなっているということ、そして常に謙虚に本質をとらえているという点でした。
ここ数年は毎年来日していますが、プログラムに掲載されているインタビューを読むとヤンソンスの人柄を感じることができます。中でも私が強く惹かれるのは「意味をとらえる」というスタンスです。
「音楽は、ひとつの言語なのです。なにかを私に語っている。音楽の言葉で。楽譜だけを負う演奏はしたくありません。(中略)楽譜そのものは記号にすぎませんからね。私は意味を求めたいのです。」
ヤンソンスのこの言葉は私が常日頃、通訳のあり方について感じていることでもあります。字面だけを追いかけるのでなく、ことばという「記号」から話し手が言わんとしている「意味」を私は通訳者として聞き手に伝えたい。そう感じています。
あの苦しかった大学院生活があったからこそ、ヤンソンスという指揮者に出会え、彼の価値観は私に大きな影響を与えてくれました。そのめぐりあわせに感謝しつつ、これからも一つ一つの目の前の仕事を丁寧におこなっていきたいと思います。
(2013年11月25日)
「日日是幸日 パーソンセンタードケア」寺田真理子著、全国コミュニティライフサポートセンター発行、2013年
著者の寺田真理子さんは、以前、本サイト「ハイキャリア」内で「マリコがゆく」というコラムを連載なさっていた。当時は通訳・翻訳の仕事がメインだったが、今は認知症ケアを中心に講演などでも活躍中である。
ご本人に以前お会いしたことがあるが、寺田さんはおっとりとした笑顔のチャーミングな女性。海外で暮らしていた幼少期に銃撃事件を経験したり、20代に重い鬱を患ったりということは感じさせないようなお人柄だ。
パーソンセンタードケアとは、認知症がある人を中心にしたケアのことで、寺田さんはこの方法を自らの鬱の症状にあてはめて、鬱の世界に別れを告げることができたと言う。
本書には、日々どのような考え方で幸せを感じるか、寺田さんならではの視点が反映されている。中でも一番心に残ったのは、「そこにある幸せを大切にしようと心に決めて生きてほしいのです」という文章。そう、「心に決めること」は自分にしかできないのだ。だからこそ、勇気を持って目の前のことをまっすぐ見て、心に決めるという「覚悟」が必要なのだと思う。
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