INTERPRETATION

第600回 commencement

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

数年前のこと。教え子が9月上旬にメールをくれました。読むと「無事卒業が決まりました。9月下旬が卒業式です。今までお世話になりました」という内容。教え子に最後に会ったのはメールからさかのぼること半年以上前でしたので、覚えてくれていたことにとても嬉しくなりました。

卒業式は英語でgraduation ceremonyと言いますが、アメリカではcommencement ceremonyの方が一般的です。commencementとは「開始、始まり」のこと。なぜ「卒業」なのに「始まり」という単語を使うか、不思議ですよね。実はこれ、アメリカならではの価値観が反映されています。「卒業=新たな人生の始まり」ととらえているからだそうです。アメリカは日本と異なり、大々的な入学式をおこなわない分、卒業式を一大イベントにしているのですね。学帽を空中に放り投げる様子、みなさんも一度はテレビでご覧になったのではないでしょうか。

さて、このコラムも今回が600回目。アップロードされるのは9月第一週目の火曜日です。義務教育ならまもなく2学期が開始、会社員であれば人事異動で新たな職場へという方もおられるでしょう。大学はもう少しすると秋学期が始まります。この秋に「新たな始まり」や「出会いと別れ」を実感されている方も多いのではと思います。

通訳という仕事は、社内通訳であれば同じ職場で働きます。一方、私のようなフリーランスは一期一会の世界です。長くても数日間のシンポジウム。たいていは1日フルデーか半日ないし数時間です。自分の人生時間で見たら本当に本当にミクロ的な時間を共に過ごしているにすぎません。

通訳現場では先輩・同僚通訳者を始め、エージェントのスタッフさんや技術担当の方、クライアントさんなど、多くの方との出会いがあります。「わあ、この人の仕事への取り組みは素敵だな」と刺激を受けることもあるのですね。そのような方々は、いわゆる目ヂカラであったり、キビキビした動きであったり、気くばりや優しさなどがオーラを放ち、私を支えてくれます。同じ空間にいるだけで、「この人たちと共に良い仕事を作り上げたい」という思いを抱けるのです。「お互いに高め合って、お客様に喜んで頂く」という共通目標は、充実した時間をもたらしてくれます。

これは仕事に限らず、普段の生活でも当てはまるでしょう。家族、恩師、友人など、実は自分を支えてくれる人が身近にはいるのですよね。そうした方々に励まされ、生かされてきたのだなあと最近私はしみじみ感じます。そのような方々のことを考えると、感謝の気持ちが湧きあがります。

あの猛暑の日々も少しずつ穏やかになり、季節は秋を迎えます。9月は私たちにとってのcommencement。新しい出会いや仕事、学びの巡りあわせもきっとあることでしょう。

みなさまに健やかな日々が訪れますように。

(2023年9月5日)

【今週の一冊】

「こいぬのうんち」クォン・ジョンセン著、チョン・スンガク絵、ピョン・キジャ訳、平凡社、2000年

タイトルからして一瞬「えっ?」となったみなさま、私も同感でした!乳幼児向けにヒトの生理現象を解説する絵本はたくさんありますが、こちらは本格的なストーリーもの。作者のクォン・ジョンセンさんは1937年に東京で生まれ、1946年に韓国へ帰国されています。年代から、当時の戦争や終戦後のことが連想されます。

物語の主人公は子犬が道端に残していった「うんち」。この「こいぬのうんち」は自分が誰からも必要とされていないのだという絶望感に見舞われ、彼の思いがページをめくるたびに綴られていきます。

ひとりぼっちであること、あるいは誰の役にも立っていないという悲しみは、フィクションの世界にとどまりません。私たちの人生にもあるのではないでしょうか。「信じていたのに報われなかった」「共に時間を過ごしているのに、淋しさを覚える」などは、誰もが一度は抱いたことのある感情だと思います。

こうした思いにとらわれてしまうと、人はつい視野狭窄になり、自分の不幸が巨大化して手に負えなくなってきます。それを直視するのが怖いと思考停止に陥り、他のものに逃避するということもあるでしょう。あるいは、他者にすがって答えを出してもらおうとするかもしれません。

でも、「こいぬのうんち」は自分の悲しみにとことん向き合います。逃げないのです。そして時間の経過とともに、気づきを得ます。そのプロセスは辛いものでしたが、「こいぬのうんち」はやがて幸せを見つけ、それをしっかりと実感していきます。

穏やかな画と優しさを伴う訳文が読み手を温かな気持ちにしてくれる、そんな一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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