INTERPRETATION

第597回 「電車」から降りたって良い

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「ものすごく頑張った結果、天職に出会えた」というケースがあります。私もその一人です。その「頑張り」は本人にとっては生きがいなので、苦しみはあまり伴わないのですね。もちろん、運動選手や徒弟制度のある職業の場合、厳しい修行やトレーニングを伴います。でも、「その道に進みたい」と本人が切望していると、辛さの向こうにある「目的地」の方が明確なので、そちらに向けて邁進できるのですね。

私の場合は「通訳者になりたい」と熱望していたわけではありません。学童期に英語圏にいたため、たまたま英語は身近でした。それを活用してガイドや翻訳をしてみたいという思いは漠然と抱いていました。でも、通訳業という仕事に出会ったのは大学生になってから。たまたま本専攻の分野に身が入らず、他学部の通訳授業をとったのがきっかけです。ただ、当時はあまりの難しさに「自分にはとうてい無理」と思っていました。私にとっての通訳授業は、「何となく物足りないfree conversationの英会話スクールではない、もっと上級の英語授業」という位置づけだったのです。

でも、面白いものでそうした「縁遠さ」が、人生の流れでぐいぐいと近づいてくることもあります。様々なご縁とタイミングでこの仕事へ誘われていったのです。ただ、デビュー当時は想像を絶する難易度に打ちのめされるばかり。「こんな簡単な文章も訳せなかったとは」「ひとえに準備不足ゆえの失敗」など、連日反省でした。

仕事の不完全燃焼は、仕事で挽回するしかありません。「次こそはマシな通訳をしよう」という思いを抱き続けていたら、長年この業界にとどまっていました。「マシな通訳をするためには、ただひたすら勉強あるのみ」「 新たな分野をアサインされれば猛勉強」「既知の分野でもさらに深い知識を得るためにとにかく学ぶ」。私にとっては学ぶことそのものが自己実現・自己投影のようになっていきました。

勉強の良いところは、「一心不乱に学べば学ぶほど現実逃避になる」ということ。日常生活の些末な悩みやザワザワ感を忘れられるのです。通訳の仕事が軌道に乗り始めたころの私は、人生課題をあれこれ抱えていました。ですので、真正面からそうした問題に取り組む辛さよりも、勉強や仕事に逃げる方がラクだったのです。仕事で良い結果を出せば次が来ます。そのようにして仕事面はますます充実していきました。

ただ、人生というのは照る日曇る日ありますよね。自分自身が納得のいく仕事人生を歩み続けてきたある日のこと、例の「積み残し課題」が表層化しました。やはり避けては通れなかったのです。私の目の前に提示された選択肢は二つ。

「このまま課題を見て見ぬふりして逃げ続け、仕事に没頭する」
「仕事人生から一歩退き、課題に取り組む」

のどちらかでした。

私が選んだのは後者。厳しい決断でした。ここで「今まで乗っかっていた電車」から「降りる」ことは、ややもすると「再乗車できない」という恐れがあったからです。でも、「晩年になって自分が振り返った際、どう思うか」を考えると、選択肢は一つでした。これで良かったと思っています。

「電車」から降りずにどんどん高みに行く人たちはたくさんいます。傍から見ると、とてもキラキラ輝いて見えますよね。「自分も踏ん張れば続けられたのでは?」と思うこともあるでしょう。でも、今、この瞬間の選択をするのは自分だけなのです。

今、後悔しない方を選べば、それが大正解なのだと思います。

(2023年8月8日)

【今週の一冊】

「実践アレクサンダー・テクニーク―自分を生かす技術」ペドロ・デ・アルカンタラ著、風間芳之訳、春秋社、2011年

私はクラシックコンサートが好きで出かけることが多いのですが、その際、ホールに置いてある「ぶらあぼ」という月刊クラシック情報誌を必ず頂いてきます。このフリーペーパーはコンサートだけでなくエッセイや特集、書籍紹介などが満載です。そこで出会ったのが「アレクサンダー・テクニーク」ということばでした。

アレクサンダー・テクニークは主に音楽や演劇界で使われる技法です。体をいかに使うか、負担をかけずに動かすかは生きていく上で非常に大切です。私は通訳という仕事柄、慢性的な首や肩などの凝りに悩まされています。日頃からマッサージなどのお世話になっているのですが、もっと根本的にできることはと考えていたところでしたので、本書を手にしてみました。

読んでみてわかったこと、それは自分の体の用い方に課題があるというものでした。あまりにも私は普段の生活の中で無意識ながらもチカラを入れた状態で体を動かし、生活していたのです。本書を通じて、いかに体への意識を図るべきかがわかりました。

著者は本書の中でアレクサンダー・テクニークを身体論としてだけでなく、生き方としてのとらえ方も紹介しています。たとえば、生きる上ですべてを自分の選択の結果と捉えられる人の方が、「より(人生に)上手に対処できる」(p129)とのこと。あるいは、「(他人に干渉しないことは)世界を変える強力な道具になります」(p137)、「ありふれた考えを新しい角度から見直してみることも必要」(p182)など、示唆に富んでいるのですね。

具体的なメソッドを本書からはもちろん学べるのですが、さらに気になる方は動画サイトで「アレクサンダー・テクニーク」を調べると色々アップされています。通訳の仕事を長く続けるためにも、取り組んでみたい方法と感じます。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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