INTERPRETATION

第592回 転んだから出会えた!

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

執筆しようと本稿の回数を見たら今日で「592回目」。こうして長らく続けられるのも読者の方がおられるからこそ、そして自由に書くことを見守ってくださる本サイト運営会社テンナイン・コミュニケーションさんのおかげです。改めて御礼申し上げます。

さて、ここ数年、私が書いてきた本コラムは何かと精神論やら心理学系(?)に偏っているように思えます。というのも、新型コロナウィルスで私自身、メンタルに色々と影響があったからです。地域限定的と思われた感染症がここまで全世界に広がったのは前代未聞でしたし、それが仕事や人間関係にまで影響を及ぼすなど、かつてなら想像できなかったですよね。それゆえに、余計ものごとに対して敏感に感じやすくなったのかもしれません。

でも、副産物もありました。しんどいなあと思っている時期に私は落語に出会いました。きっかけは、たまたま友人が誘ってくれた志の輔さんの独演会。大道具小道具もなく、話術「だけ」で人々を魅了し、噺の世界に引き込んでくれる落語の凄さに改めて開眼したのです。「話す仕事」をする私にとっても大きな発見となりました。

以来、テレビの「笑点」を欠かさず観るようになり、笑点メンバーの独演会や二人会などに出かけること数知れず。私は海外オーケストラのコンサートも好きなのですが、音楽会と比べて落語は破格のチケット代。しかも日本全国いろいろな場所で催されているのですよね。

もう一つの「出会い」はラジオ体操。そう、あの「小学校の夏休みに眠い朝たたき起こされて参加してスタンプをもらうラジオ体操」であり、「中学校の体育祭で必ずやるラジオ体操」であり、「思春期になるとあの独特の動きに恥ずかしさを覚えてしまうラジオ体操」です。こちらもたまたまテレビをつけたら放送しており、取り組んだのでした。

同時通訳の仕事をしていると頭や顔面、首、肩、肩甲骨や背中がガチガチに凝ります。ラジオ体操の動きは基本的なものばかりですが、毎日続けるうちに体の不調は劇的に改善。今ではCNNの放送通訳控室で同じ動きをこっそりと(?)しているほどです。NHKの体操はラジオだけでなく、テレビでも放送されており、午前と午後にもアレンジ版の体操の時間があります。私にとって良かったのは在宅ワーク中、「とりあえず時間になったらPC画面から離れてテレビやラジオに合わせて動かすこと」でした。ライブ感が実に心地良いのです。

「好き」が高じると新たな世界が広がります。先日私はラジオ体操指導者講習会なるものに参加。テレビでおなじみの先生方が地元体育館にいらして直接教えて下さるというイベントでした。いざ会場に到着してみると、何と参加者は180人以上!これほど人々に愛されているとはと感激しました。参加者全員が「ラジオ体操大好き」なのです。動きの説明を改めて学びながら体を動かし、実に楽しいひとときでした。

ここ数年、新型コロナの影響でメンタル的にきついなあと思うこともありました。でも、こうしてふとしたきっかけで人は前を向いていけるのだと思います。2日夕方の「笑点」では真打披露口上があり、立川小春志さんが名前の頭文字から「こ・転んでも」「しゅん・瞬発力で」立ち上がる旨をおっしゃっていました(スミマセン、肝心の「じ」の部分を聞き逃し・・・)。

通訳の仕事もクイック・レスポンスの瞬発力が大事。転んだからこそ出会えたものを大切にしたいなと思います。

(2023年7月4日)

【今週の一冊】

「ぼくらの中の『トラウマ』」青木省三著、ちくまプリマ―新書、2020年

ちくまプリマ―新書は筑摩書房が手掛ける新書シリーズ。ターゲットは若者向けというだけあり、実に読みやすくなっています。本書を手にとったきっかけは、人間の遭遇するトラウマや苦しみ、悲嘆について知りたいと思ったからでした。

生きている間、トラウマとして残ってしまうような体験には誰も出会いたくないと思うもの。ただ、青木氏によれば、トラウマというのは「自分を見つめる、自分の生き方や将来を考える契機となることもしばしばある」(p77)のだそうです。つまり、程度の差こそあれ、人はトラウマを経験すると思えば、気持ちも楽になるように私は感じます。

辛い出来事に直面すると、つい周囲のせいにしたり、あるいは自分の忍耐不足を嘆いたりしがちです。でも青木氏いわく「自分は悪くない」と信じることが大事であり、このことばを呪文のように唱え続けることが回復につながるそうです。

一方、対人関係では「急にパニックになったり、怒り出したりする人に、トラウマがあるとわかれば、その人の苦しみや言動の変化の原因が理解できる」(p170)とも書かれています。もし誰かから酷い仕打ちをされても、それが相手のトラウマから生じたものかもしれない、と思えばこちらの受け止め方も変わります。

本書はトラウマのさなかにいる人を始め、周囲の支援者にとっても参考になるヒントがたくさんあります。励ましを得られた読後感でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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