INTERPRETATION

第591回 「れば」の功罪

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者というのはアスリートや芸術家に似ています。当日に向けて周到に準備し、ミスが本番で出ないよう、細心の注意を払いながら徹底的に整えていきます。サッカー元日本代表の長谷部誠選手は「心を整える」という本を記しておられますが、まさに通訳者も本番まで「心を整える」必要があるのですね。

英語力・日本語力・知識や訳出だけではありません。マナー面でも気を配ります。たとえば「香り」。同時通訳ブースは畳2畳ほどのスペースで、コロナ時代用語なら「3密」そのもの。よってそうした空間では香りが気になります。においのきつい飲食を持ち込めばこもりますし、柔軟剤や香水も容量オーバーになれば「香害」です。そうなるとパートナー通訳者も集中しづらくなります。

逐次通訳やウィスパリング通訳現場でも配慮が求められます。特にウィスパリング通訳では、お客様の真横または斜め後ろに通訳者は位置します。そこで相手の耳に向けて同時通訳をするのです。いわばヘッドホンやマイク無しの通訳。家族や恋人並み、いや、それ以上の(?)至近距離になりますので、やはり香りには気を遣います。間違っても、前日あるいは直前にニラレバ炒めなど食べてはいけません。コーヒーも私は避けています。個人的にどれだけ自分の好物が前日に食べたくなっても、ぐっと我慢というわけです。

さて、前置きが長くなりましたが、今日はその「ニラレバ炒め」から連想して「れば」についてのお話です。

数週間前のこと。天候不順や疲労がたまっていたからなのでしょう。なんだかぐったりしてしまったことがありました。気力がわかない、何となくマイナス思考。今までできた項目が億劫、という状況です。

「おかしいなあ、昔ならもっとスムーズだったのに」

と過去の自分と比較しては余計焦り落ち込むのですね。何しろスタミナがあったころは底力で切り抜けられていたからです。

でも、考えてみたらあれからずいぶん年月も経てきています。某ファッションショップのごとく、いつまでも21歳というわけにはいきません。そこは自分に正直にならねば。

ということで、改めて気づいたことがあります。それは、
「頑張ればできる」
ということと、
「無理すればできる」
ということ。この2つは全く別物であるのです。

若い頃はちょっとやそっとのことでも「頑張れば」切り抜けられます。それを可能にするスタミナがありましたし、時代も今とは異なりました。もっと世の中がのんびりしていたのです。

でも、今は私も年齢を積み重ねていますし、かつての馬力はありません。物事も急速に展開する時代です。かつてのメソッドでは太刀打ちできないのです。ゆえに余計「頑張ればできる」を通り越して、

「無理すれば何とか切り抜けられるはず」

という根拠のない自己暗示をかけながら、心身を酷使していたのでした。

かつての自分の方法にも長所はあったでしょう。でも、それにこだわり過ぎては体がかわいそう。「頑張ればできる」というのは、まだ体力に余裕がある段階。でも「無理すれば」を無意識にしていると体が悲鳴を上げます。モノを相手にしているのであれば、「無理すれば」も通用するでしょう。たとえば、「TOEICのスコアを上げる」という目標に向けて、頑張って多少「無理」しても、結果はスコアアップという形で報われます。

でも、対人関係で頑張りすぎて、さらに「自分が無理すれば解決できるはず」となってしまうと、反動も大きくなります。なぜなら「人」が相手となると、こちらも相手に期待してしまい、思っていた通りの展開にならなければ余計傷つくからです。「相手にも相手の価値観や気持ちがある。自分と合わないときは無理をしても仕方がない」と解釈するのがベストなのですよね。自分と相いれないときは、もうあのベストセラーのタイトルごとく相手は自分にとって「ざんねんないきもの」と割り切るしかありません。

ですので最近の私は、「『れば』の功罪」に陥るべからず、と一休さんのごとく呪文を唱えて日々を過ごしています。

(2023年6月27日)

【今週の一冊】

「まだ間に合う 元駐米大使の置き土産」(藤崎一郎著、講談社現代新書、2022年)

今回ご紹介するのは元駐米大使・藤崎一郎氏の一冊。藤崎氏は英国公使やジュネーブの国際機関勤務など、様々な職務を歴任されています。一方、上智や慶應義塾大学などでも教鞭をとっておられます。私はBBCの番組審議会でご一緒する機会があり、お目にかかったことがありました。

審議会終了後に一番感激したのが、たった今、初めましてだったにも関わらず、私の名前を即座に覚えておられたことでした。大使歴任後も多忙を極める中、相手の名前を記憶し、会話をなさるお姿に感銘を受けたのです。

本書を読むと、藤崎氏の仕事に対するスタンスがよくわかります。外務省時代の経験から編み出された仕事論とも言えます。タイトルの「まだ間に合う」は、次世代を担う若い人たちに気づいてもらいたいからこその呼びかけでもあるのです。

中でも印象的だったのが、
「世の中で絶対に取り戻せないのは時間」(p47)
「失敗したと思ったときほどその相手に近寄っておかないと失点はリカバーできない」(p62-63)
の文章。確かにどれほど頑張っても時間だけは戻ってきませんよね。一方、失敗したならば、早いうちにその相手に近づいた方が、ダメージは少なくなります。

最後にもう一つ。

「パワポは見やすく一見わかりにくく」(p256)

スライドにぎっしりとデータや文章を書くよりも、大きいフォントで見やすいのが一番です。と同時に、数字や単語だけ目立つように書いておき、一見何だかわからない方がインパクトは大きく、聴衆の記憶に残りやすくなります。

若い人たちにはもちろん、現役・リタイア世代にもぜひ読んでほしい一冊です。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END