INTERPRETATION

第589回 「卒業しよう」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

幼少期に私はオランダのアムステルダムで暮らしていました。通っていたのはアメリカン・スクール。米国の教育カリキュラムに則り、授業が組み立てられていました。新年度開始は9月ですが、私が転入したのは春の終わり。あっという間に夏休みが始まりました。

アメリカの学校の最大の特徴。それは「夏休みが長いこと」です。何しろ6月から9月まで丸々3か月も休暇なのです。「ロング・バケーション」という某ドラマタイトルも真っ青の(?)長さで、子どもにとっては天国です。でも、喜びもつかの間。華やかな卒業式の後は、ひたすらお休みで次第に飽きていったのでした。

さて、今日は「卒業」をキーワードにしたお話です。

先日、とある学習相談を受けました。内容は、

「長いこと○○のテキストで英語学習を続けてきました。でも、今一つ実力アップを感じられません。どうしたら良いでしょう?」

ご相談者は将来の具体的な夢も決まっています。その実現に向けて英語の勉強を続けているものの、日々の学びに達成感を抱けない様子でした。

過去、私も同様の状況に直面したことがあります。

「ずっと信じて同じテキストを使ってきた。最初は楽しかったのに、今はワクワクせず」
「昔は検定試験のスコアがアップしていたのに、最近は今一つ」

つまり、「スランプ」ということなのですね。低迷期には3つ理由があります:

1 自分のライフステージが変わった:
「昔と比べて勉強に割ける時間が変化した」「年齢により体力や気力が減った」など、生きていく上で自分の環境が変化したケースです。ライフステージが変化すれば、勉強に向けるエネルギーもチェンジするのですよね。

2 自分の英語レベルが変わった:
初心者レベルの頃に使ったテキストや学習法は、その当時の自分の実力に合っていたもの。つまり、自分のレベルが向上すれば、かつての方法は古くなってしまうのです。どんどん泳げるようになった人がいつまでもバタ足練習をするのが不毛なのと同じです。

3 価値観が変わった:
英語は好き。でももしかしたら自分には他の関心事が出てきたのかもしれません。以前の学習習慣やトレーニング方法になじみがある分、それを減らしたりやめたりして「今スキな項目」にエネルギーを向けることに、もしかしたら罪悪感を抱いているのではないでしょうか?そうなると、「今の偏愛テーマ」にも情熱を注げず、英語学習も中途半端になってしまいますよね。

ではどうすれば良いでしょうか?

私は「今までのやり方を卒業すること」を自分に許して良い、と考えます。新しい学習法や新たな趣味に完全転換できないのは、「ここまで頑張ってきたし」「ずっとやってきたし」「楽しかったし」「今更やめるのは敗北みたいだし」という執着があるからです。新たな価値観を自分に導入するにはエネルギーを伴います。よって、過去にしがみついている方が実は心理的に楽なのです。

元駐米大使の藤崎一郎氏は「世の中で絶対に取り戻せないのは時間」と述べています。精神科医の神谷美恵子先生は、膨大な蔵書を前に「この本はもう卒業しよう」と言いながら束ねて処分していたそうです。

自分に許されている人生時間をいかに有意義に過ごすか。最後に私の通訳恩師・井上久美先生の名言をどうぞ。

“Choose to be happy!”

(2023年6月13日)

【今週の一冊】

「直観を磨く」(田坂広志著、講談社現代新書、2020年)

数年前、いろいろな課題に直面して逡巡していた頃、通訳仲間に勧められたのが田坂広志さんでした。原子力畑出身の田坂氏は現在、ビジネス書や教養分野など多方面の観点から本をたくさん記しておられます。どの作品も示唆に富み、一度しかない人生をいかに生きていくか、読み手はヒントを得ることができます。語り口はとても静かで穏やかな文体ですが、読後にはエネルギーを与えられる、そんな著者だと私は感じます。

今回ご紹介する「直観を磨く」は、物事に対していかに考えていくかが綴られています。以下、印象的だった文章をご紹介します。「→」は私の感想です。

*p71 「『深く大きな問い』は磁石となって必要な知識を引き寄せる」
→常に心の中で「問い」を持ち続けると、本を読むときも何かを体験するときも、その観点からとらえられるようになる。漫然と過ごすのでなく、「問いへの答え」をもたらしたいという思いが、必要な知識を引き寄せると改めて実感。田坂氏の「この本は、自分の問いに答えを教えてくれるだろうか」(p71)という視点からページをめくる大切さを感じた。

*p90 「絶大な効果がある『反省会』と『反省日誌』の習慣」
→この文章を読み、私自身、通訳や授業などの直後に今日の自分のパフォーマンスを振り返るようになった。通訳であれば、「あの訳語を落としてしまった」「少し声が暗かったので次回から気を付けよう」という具合。授業であれば、「少々早口過ぎた」「終了間際が駆け足だった」などなど。すぐに振り返ることで、次への改善点が見えてくる。

*p294 「(自己限定の意識とは)『外から刷り込まれた幻想』に過ぎない」
→自分を縛っているのは自分自身ということ。「世間はこう考えるから」「周囲の目が気になる」という視点でつい自分に足枷をはめてしまうのだ。でも、そうした外部的価値観で自分を縛ったまま、一生を終えたいのかと考えると私自身、もっと自由になりたいと思う。だから自分に自由を許して良いと考えた。

巻末には田坂氏の著作リストもあり、次の読書にもつながる構成になっています。「元気になりたい!」という方にぜひ読んでいただきたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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