INTERPRETATION

第585回 心を込めて

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

イギリスから帰国して早や20年以上が経ちました。でも私の中では今なおロンドン時代は心温まる人生の1ページとして残っています。もはやバラ色の思い出ばかりですが、実際に暮らしていたときは、もちろん色々なことが起こりました。先週の本稿で「銀行口座が突然解約されることになった」というエピソードを綴りましたが、そんなビックリ仰天するようなことも数知れずあったのです。渦中にいると「ええっ?あり得ない!」と驚きあきれるばかりでしたが、人生というのは何でもアリ。なので楽しんだ方が良いのでしょうね。

イギリスは日本よりはるか北に位置しています。世界地図を広げてみて下さい。ロンドンから右、すなわち東に一本線を引いてみると、到達するのは日本ではありません。樺太やカムチャッカ半島です。そう考えるとイギリスの冬の寒さや日の短さも頷けます。とにかく真冬など午前9時にようやく明るくなり、午後3時にはもう夕方という感じ。冬が長くて気が滅入りました。しかも学校の新年度は9月。大学院時代は課題のハードさと日照時間の短さがシンクロして、しんどかったですね。美術館やコンサートに現実逃避しては心を慰めていました。でも、そのとき出会った芸術が今や私の趣味となり、自分を支えてくれているのですから、きっかけに感謝です。

さて、イギリス時代に自分を前進させてくれたのは、様々な季節行事でした。日本にもお正月やクリスマス、国民の祝日などたくさんあります。でもイギリスの場合、あの日照時間ゆえだったのでしょう。クリスマス前など、大人の私でもカウントダウン状態になりました。「もういくつ寝るとお正月」という歌そのものの感情を年末に向けて抱いたのですね。

もう一つ今でも思い出すのが「母の日」です。日本は5月第2日曜日ですが、イギリスは3月。しかも正式名称はMothering Sundayです。元はキリスト教の祭日から来ています。ただ、このmotheringは「母」にちなむのではなく、キリスト教の「母教会」のこと。Mothering Sundayとは、母教会を称えるという意味なのです。日にちはLent(四旬節)の第4日曜日です。「母の日」として母親に贈り物をするというのはアメリカの影響です。

さて、日本の母の日は今週末。フラワーショップや店頭では様々なギフトが並び始めています。感謝を表す母の日ですが、血のつながりの有無は問わないと私は思います。自分にとって「お母さん」のような恩師や先輩などがいれば、心を込めてメッセージやプレゼントを贈るのも素敵だと思うのですね。私自身、今までの人生でお世話になった人生の先輩、ステキなマダムやお姉さまたちがいます。今年もそうした方々の喜ぶ顔を想像しながら、贈り物を選ぶつもりです。

(2023年5月9日)

【今週の一冊】

「グレート・ダイヤリーズ 世界の偉大な日記図鑑」DK社編著、中森拓也翻訳、東京美術、2022年

私が初めて日記を書いたのは小学校2年生のとき。当時暮らしていたオランダでした。平日はインターナショナル・スクールに通い、土曜日だけ「日本人学校補習校」に通学していたのです。日本の教科書を使って指導が行われていたのでした。週1回の授業ではあったものの、毎日日記をつけるのは必須。ノートを2冊用意し、日々の出来事や思いをつづって土曜日に先生へ提出。先生が添削をしている間はもう一冊のノートで同じように日記をつけるというものでした。日本語力保持のためだったのですね。

以来、私にとって日記は欠かせぬものとなり、現在に至っています。書くのも好きですが、偉人の手書きの日記を見るのも興味深いもの。まだデジタル前の古の人々が自らの思いをどう文字を介して吐露していたのかが、筆跡を見るとわかります。

今回ご紹介するのは古今東西の日記を集めた大型本。世界中の偉人の筆跡が解説付きで出ています。日本からは紫式部や松尾芭蕉などが、一方、オランダのアンネの日記はもちろん、キュリー夫人やモーツアルトのものも掲載されていました。内容を秘匿にするため、あえて自ら考案した暗号で記した人、絵を多用した芸術家、楽譜を書き込んだ音楽家など、見ていて実に楽しめます。巻末も充実しており、国名や固有名詞、地名などから調べられるのがありがたいところです。

・・・でも、今の時代のデジタル記録、果たしてどのようにして美術館などで保管されるのでしょう?気になります。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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