第137回 受け手のあり方
今と違って私が子どものころはインターネットなどありませんでした。海外で暮らしていた私にとって、日本からの郵便物はまさに祖国と自分を結ぶ命綱だったのです。新聞は1週間遅れ、月刊誌は1か月後に届きます。自宅のポストに日本の美しい切手が貼られた封筒や小包が入っていると、幸せに感じたものでした。
イギリスに暮らしていたとき、郵便局がストライキを起こしました。労働条件を巡っての抗議行動です。数週間続いたと記憶しています。その間、自宅に郵便物は届かず、日本へ送る手紙も滞りました。私と日本を結ぶ絆がぷっつりと切られ、取り残されたように思いました。
以来、私にとって「何かを運んでくれる人」というのは本当にありがたい存在なのです。私一人ですべてを配達することはできません。たくさんの人の手を経て、郵便や小包は本人の元に届けられるのです。雨の日も風の日も雪の日も、郵便受けには書簡が届きます。わが家のようにエレベーターなしの4階マンションでも、嫌な顔一つせずに重い荷物を運んでくれる配達員さんがいます。ありがたいことだとしみじみ思います。
近年、モノやサービスはどんどん無料になりました。インターネットを覗けば、大量の情報が公開されています。また、販促活動の一環として、小物や文具などがいつの間にか手元に溜まります。タダで手に入れることに慣れてしまったため、本来のありがたさが薄れているのです。
それと同時に、「お金を払っているのだから」と過大な期待をかける側面も見られます。消費者意識が以前と比べて高まり、些細なことでも苦情を申し立てる人が増えています。書店にクレーマー対策本が並ぶのも、時代を反映しているのでしょう。
一方、通訳翻訳業界はどうでしょうか?かんたんな文章であれば、ネットの翻訳サイトを使い、瞬時に目的言語に訳して概要をつかめます。黎明期の通訳業界とは異なり、今は通訳者を依頼する企業も厳しい環境に置かれています。そのため、通訳料金もかなりシビアになりました。
私たちは豊かになった分、最小限の投資で最大限の効果を期待するようになりました。その期待が高ければ高いほど、望みどおりの結果にならなかったときの失望は大きくなります。英語学習であれば「最低限の勉強時間で最大効果が表れる学習法」、ダイエットであれば「ラクしてヤセる方法」といったところです。けれども物事そううまくは行きません。「せっかく試してみたのにうまくいかない」という不満を抱くことを繰り返しながら、あちらの学習法、こちらのダイエット術と漂流しているのです。
話を戻しましょう。
私が大事だと思うのは、「受け手のあり方」です。荷物が運ばれてくること、情報が提供されることなどについて、今一度立ち止まり、そのありがたさを実感する必要があると感じるのです。「お金を払っているから」「そうしてもらうのが当然だから」という前提から少し離れてみることが大切だと思うのです。
通訳者も言うなれば「ことばを運ぶ人」です。お客様の中には通訳者が働きやすいよう、実に細やかなお心遣いをしてくださる方がいらっしゃいます。業務前にはあらゆる資料を提供し、当日は私たちが発するメッセージに耳を傾け、終了時にはねぎらいの言葉をかけて下さる方がおられます。そうしたクライアントさんに接すると「受け手のあり方」の鑑を見たように私は思うのです。
(2013年10月28日)
とにかく紙の辞書が大好きな私にとって、「辞書」と名のつく書籍にはつい目が行ってしまう。特に編集者たちがいかに苦労して一冊の辞書を作り上げたかに関心がある。
現に新しい辞典を購入すると、私は真っ先に「まえがき」を読む。版を重ねた辞書では「第○版に寄せて」といったタイトルが付いている。そこには「初版出版から数年たち、世界は大きな変化を遂げている。言葉の世界も同じである」などといった文言が並ぶ。そして文末には「この時点の編纂にあたり、初版でご尽力いただいた○○先生が惜しくも亡くなられた」といったことも書かれている。そう、辞書作りは長丁場であり、まさにその編集に生涯をささげる人がいるのである。
著者の増井氏は岩波書店で広辞苑の編集に携わった方である。本書では言葉選びや定義のつけ方だけでなく、どのような紙を使うか、掲載語彙数はどう数えるかといった興味深い話がたくさん出ている。
中でも面白かったのは、なぜ辞典には写真でなく手書きの図があるのかという説明。今まで意識したこともなかったが、確かに「ジーニアス英和辞典」も「クラウン仏和辞典」もイラストは手で描かれている。増井氏によれば、これは「描き手である人間を介して、省略と強調という情報操作が行われている」からだそうだ。ちなみに広辞苑では矢崎芳則さんというベテラン画家が携わっておられる。
残念ながら私の電子辞書には、校正者や図版・装丁担当者のお名前まで出ていない。一方、紙の辞書には奥付ページにそれらが書かれている。たくさんの方々の尽力によって、私たちはことばの豊かさに浸ることができるのだ。
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