第581回 職業病
世の中にはたくさんの仕事がありますが、もれなく付随するのが「職業病」。たとえばマッサージ師の腱鞘炎、ヘアスタイリストなら手荒れ、ネイリストの腰痛、プログラマーのドライアイなど。「好きなこと」を仕事にしていても、そうした症状に見舞われるのは辛いですよね。ちなみに私の場合、発声による喉や肩の緊張感が挙げられます。
通訳の仕事を通じたもう一つの「職業病」が実は私にはあります。それは肉体的でなく心理的なもの。「無意識」への作用です。具体的に見てみましょう。
放送通訳や会議通訳の場合、私にとって大きな助けとなるのが話者の表情やボディ・ランゲージです。もちろん、事前資料を入手することも大きいのですが、本番ではそうした「非言語メッセージ」からたくさんのことを読み取れるのですね。口元や目、眉間のシワ、前のめりになっている様子などを通じて、次に何を言うか想像するのです。無意識に推測することで話の流れをつかめると、通訳もしやすくなります。
でも、これは私にとって日常生活における弊害にもなっています。何しろコミュニケーションにおいて「深読み」をしてしまうのです。無意識ながらも相手のことばや身振りから「もしかしたら、こういうことを言おうとしているのではないか?」「こんなことを考えているのでは?」と勝手に空想してしまうのですね。ポジティブな展開なら良いのですが、脳が自発的にネガティブな内容を描いてしまうと不安になります。完全に不毛な独り相撲です(笑)。
この「無意識」というシロモノ、意外と厄介です。人は誰でも「他者から好かれたい・嫌われたくない」と思う生き物ゆえ、コミュニケーションでは深読みしがちです。それが謙虚さや遠慮を生むことで大衝突を避ける要素にもなってはいますが、デフォルトが「良い人にならなくちゃ」という思いだけだとくたびれてしまいます。
とりわけ私の場合、コミュニケーションにおける「間(ま)」をとるのが不得手で、会話のキャッチボールをしていても、つい「何か話さねば」と無意識に焦るようです。立て板に水のごとしで話す方が良いのではとの思いが、これまた「無意識」に存在していて、本音では思っていないことさえ「空白を埋めねば」と考えてしまうことがあります。
これぞ通訳業務を続けてきた結果なのかもしれません。何しろ通訳者にとって「数秒間の空白」は恐怖。このまま黙り込んで同時通訳がストップしてしまうのではと想像するだけで血の気が引きます。聞き手にしてみれば大した秒数でもないのに、コトバで埋めようとしてしまう。塗り絵のすべての白い部分に色鉛筆で必死に塗り込んでいるようなものです。
私の友人で実に聞き上手の人がいます。こちらが話している内容をいつもニコニコ頷きながら聴いてくれるのですね。さりとて自分の意見が無いわけではなく、反応の言葉を入れながら聴くタイプです。素晴らしいなあといつも感心します。この友人を見るたびに、私も「無意識の部分で焦る」という職業病から少しは脱したいなと感じます。
(2023年4月11日)
【今週の一冊】
「ヴァロットン―黒と白」(三菱一号館美術館、筑摩書房、2022年)
人であれモノであれ情報であれ、「出会い」というのは偶然。数か月前、早朝のCNN放送通訳シフトを終えた私は、とある美術展を観たくて丸の内へと向かった。しかし、お目当ての美術展は事前予約制で、チケットが無かった私は入れず。仕方なく、どこか近くに別のミュージアムはないかと歩き始めた。すると、たまたま三菱一号館美術館があった。受付で尋ねると、チケットはその場で買えるとのこと。そこで鑑賞したのが今回ご紹介するフランス画家ヴァロットン。初めて知った。
19世紀に活躍したヴァロットンは、黒と白だけの色使いで表現している。テーマは男女、戦争、日常から世情に至るまで幅広い。ヴァロットンが描く世界は、当時のフランス社会を知る上で非常に貴重な資料性がある。
中でも私の目を引いたのが「アンティミテ」と題する男女の親密な関係をテーマにしたシリーズ。わずか10点の版画作品なのだが、白と黒で描かれる世界は、鑑賞側の想像力をかき立てる。各作品のタイトルも抽象的で、「この男女は夫婦なのか?それとも後ろめたい関係なのか?」など、余計気になってしまう。
ヴァロットン展は残念ながら巡回はしないもよう。また近いうちにぜひ開催してほしい。それまでは本書をじっくり味わい、ヴァロットンの世界をより深く味わいたいと思う。
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