INTERPRETATION

第136回 恩返し

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

社会人になりたての頃はまだ日本がバブルの最中でした。会社も先輩方も羽振りが良く、その恩恵をずいぶん頂きました。私一人では出かけられないようなレストランでごちそうしてくださったり、貴重な体験談を聞かせて頂いたりと、今思い出してもそれらは私の中で無形の宝物となっています。「周りの大人はすべて先輩」。そんな若かりし頃のことです。

しかし、ふと気が付くと、いつの間にか自分よりも年下の世代が社会人の仲間入りをしていました。駅員さんも車掌さんも銀行の窓口の職員もお店のスタッフも、私より若い人が目立つようになりました。そうしたエネルギーあふれる若者のパワーが、私たちの世代を中堅グループへと押し上げて行ったのです。

かつて先輩方に良くして頂いたものの、直接その先輩たちに物的なお礼ができないまま、私は後輩を持つようになりました。次は私たち世代が、後進を育てる番なのです。社会というのはそのようにして受け継がれていきます。私にできることは何だろう。そんなことを考えながら今に至っています。

今私は大きな組織に属していません。複数のエージェントに登録し、フリーランスで働いています。執筆の仕事や学校での指導もあります。どっぷりと会社に浸かっておらず、長期的な仕事仲間や後輩というのは、実はあまりいないのです。

けれども私の中では「次の世代に何かを残したい、受け継いでもらいたい」という思いがあります。そこで思いついたのが、感謝の気持ちを言葉にする、ということでした。

日本のように社会がきちんと機能している国で暮らしていると、「ちゃんとしていること」が当たり前のように思えてきます。時刻通りに動く電車、行き届いたサービス、訪問時間を守るスタッフなど、「そうしてもらうのが当然」というのが今の日本です。

けれども通算11年間、海外で暮らした経験からとらえると、そうした「当たり前」は日本だけのように思えます。「電車の行き先が突然変わる」「配管工事を待っていたのに時間通り来宅しない」「クリーニングを取りに行ったら、いつの間にかジャケットがすり替えられていた」など、信じられないこともずいぶんありました。

ですので余計、私は個人的にも「日本の当たり前」に感謝したくなるのかもしれません。目の前の仕事を黙々と丁寧にこなす人たちに、ありがとうの一言を何とかして伝えたくなるのかもしれません。

かつて私は通訳者としてさらなる上を目指そうと、ギラギラしていた時期がありました。書店へ行けば自己啓発本を買いあさり、どうすれば目標を達成できるかばかりを考えていたのです。一つのタスクをやり遂げたら、すぐ次を考える。その繰り返しを実践しながら上へ上へとばかりに目を向けていたのです。

しかしそのような生き方もそう長く続けられるわけではありません。少なくとも私は自己実現より、頑張っている人を助けたいと思うようになりました。猪突猛進型の自分にくたびれてしまったからなのでしょう。

頑張っている人に感謝をし、励ます。それが私に与えられた課題のように思います。もし私の小さな一言で、その人が学びや仕事の喜びを抱けるようになるならば、こんな嬉しいことはありません。そしてそれこそが、私がお世話になった先輩方への「恩返し」になると考えています。

(2013年10月21日)

【今週の一冊】

「『なんでだろう』から仕事は始まる!」小倉昌男著、PHP、2012年

私は自分の仕事を「サービス業」だと思っている。通訳にしても指導の仕事にしても、相手に応じて最適な商品を提供することが使命だと感じているからだ。かつては通訳イコール頭脳労働という見方もあったが、千本ノックのごとくすべての単語を拾って目的言語に訳すだけでは自己満足に終わってしまう。聞き手が何を求めているのか、話し手は何を伝えたいのか、それをしっかりと把握することが通訳者には必要とされる。英語のserviceには「奉仕」という意味がある。私が考える「サービス」とは「奉仕」の意味合いが強い。

そのような理由から、私は経営者の本を読むことが多い。今回ご紹介するのはヤマト運輸の元会長を務めた小倉昌男氏が記したもの。小倉氏と言えば、規制を巡って運輸省や郵政省と戦うタフな経営者というイメージがある。しかし本書からはそんな印象を受けない。むしろご本人も記している通り、気が小さくて優しい雰囲気の方が強い。要は「正しくないこと」や「理不尽なこと」に対して、体を張って闘っていたのであろう。

良き企業、活気のある会社というのは、必ずトップの姿勢が反映される。私は仕事柄宅配便を利用することが多いのだが、いくつかの選択肢の中からヤマトを使うようにしている。サービスはもちろんのこと、接するスタッフのレベルの高さをありがたく思っているからだ。それらを私たち利用者に提供できるのも、ひとえに経営者の哲学があるからだと思う。

仕事をしていく上で一番大事なのは、お金や儲けよりも、「自分が役に立っている」という気持ちである。それを感じられることが生きがいにつながる。いかに仕事に取り組むべきか。そのヒントが本書にはたくさん綴られている。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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