INTERPRETATION

第576回 モヤモヤ洗い出し

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

ビデオ会議システムの進化、さらにコロナ後を見据えた入国緩和策などにより、会議通訳案件が再び増えています。私の専門は放送通訳分野ですが、最近、セミナーの同通も担当するようになりました。ただ、私の場合、ニュースであれ国際シンポジウムであれ、通訳業務終了後に「今日は完璧に訳せたっ!!」と思える日はありません。これは演奏家やスポーツ選手も同じでしょう。どれだけ準備をしたとて、練習や作戦通りにいくとは限らないからです。

通訳という行為は多大なる集中力を要します。スマホでLINEをしている10分はあっという間ですが、同時通訳の10分はとてつもなく長く思えます。通訳現場で私はキッチンタイマーを使いながらパートナー通訳者と交代しますが、タイマーの進み方が遅く思えることがあります。登壇者のスピードが速かったり、難解な内容だったりすると、訳し始め直後から「ああ、まだ交代まで8分もある。早く時間が過ぎて~」と思うのですね。

何とか無事に業務を終え、お客様からねぎらいのお言葉を頂戴したときは疲れも吹き飛びます。しかし、それでもなお、私などモヤモヤ感が完全払拭されるわけではありません。そこで毎回業務後におこなうのが「モヤモヤ洗い出し作業」。以下のようなモヤモヤを一つ一つ分析していきます:

1 自分の訳出に関するモヤモヤ
アウトプットに対するモヤモヤとは「訳せなかった」ことを意味します。では、その理由は?私の場合、
(i)単語の度忘れ
(ii)知識不足(英語でも日本語でもその知識自体を知らなかった)
(iii)一般常識なのに、そもそも知らないまま生きてきた

この3つゆえに訳せなかったことが大半です。(i)の場合、事前にもっと集中して単語を暗記すべきでした。一方、(ii)に関しては、「準備不足」に尽きるでしょう。もっと予習時間を捻出して、山掛けをして臨むべきだったのです。一方、私が一番ダメージを受けるのが、実は(iii)。社会人として知っておくべき常識・教養が欠落していたため、訳せないというケース。そのことに本番中、気づかされて深く深く(?)恥じ入ってしまうのです。たとえば、”2008 global financial crisis”と聞いたら、理想訳は「リーマンショック」。一方、「非自民党連立政権」は”eight-party coalition”と英訳できれば、日本人以外の方にもわかりやすくなります。他にも故事成語、ジョーク、新語なども即座に的確に訳したいのですが、それができないと「精進の余地あり!」と感じます。

2 ヒトに基づくモヤモヤ
間に通訳エージェントが入っている案件の場合、コーディネーターさんたちは実に涙ぐましい努力でプレゼン資料を入手してくださいます。しかし、クライアントさんによっては守秘義務があるため外部に出せなかったり、そもそも「通訳者にとって資料がいかに大事か」を御存知なかったりというケースも。この場合は致し方ありませんよね。でも、いざ当日、現地入りしてみたら膨大な資料が通訳ブースに置かれていたりもするのです。さらに心臓に悪いのは、「登壇者が壇上に上がるや、手元のPCで大量のスライドを投影しながらスピーチ開始」というケース。これぞ「ヒトがもたらすモヤモヤ」。この場合、best effortで乗り切るしかありません。

ちなみに私はこの「ベスト・エフォート」という言葉を聞くたびに、ホテル予約の「ベスト・プライス」を思い出してしまうのですが・・・。

3 作業環境のモヤモヤ
もう一つのモヤモヤは「通訳現場の物理的環境」。通訳者は本番中、ものすごく集中します。よって、ちょっとした音でも集中力低下につながります。たとえば仮設ブース。会場端の木製ステージ上に設置されることが多いのですが、これは通訳者から会場全体が見渡せるよう、少し底上げになっているのですね。ただしこの木製ステージ、実は中が空洞だったりします。すると本番中、スタッフさんがブースの後ろを歩くと、ヒールの「コツコツ」音が空洞に響いてしまうのです。これで気が逸れてしまったこともあります。

一方、私はデビュー当時、先輩からこう言われたことがありました:

「通訳に集中したいから、横でメモは取っていただかなくて大丈夫。自分で責任とるから。できればペンを動かすのも視界に入って気になるので、控えていただけるとありがたい。」

なるほどと思いました。通訳者は耳から聞こえる音声だけでなく、話者の表情からも多くのヒントを得つつ通訳しています。よって、自分の視界の隅で何か動くと気になる、ということなのですね。

もう一つ、これは聞いた話ですが、「横で頷きながら座っていられると、その頭の動きがちょっと・・・」というケース。これも「視界の隅の動き」ですよね。こうしたことは傍から見れば細かすぎるかもしれませんが、それだけ集中力を要する仕事なのです。ベストな環境こそがアウトプットの良し悪しにつながるとも言えます。

業務中に感じるモヤモヤは通訳者に限らず、どのような職業でも存在するでしょう。大事なのは、このモヤモヤから自分はどのような教訓を得て改善していくかだと思います。

(2023年3月7日)

【今週の一冊】

「日本のオールターナティブ:クラークが種を蒔き、北大の前身、札幌農学校が育んだ清き精神」(藤田正一著、銀の鈴社、2013年)

昨年9月のこと。衝動的に「飛行機に乗って旅行したい!」と思った。それもそのはず。コロナ前は年に一度は飛行機の旅をしていたから。そこで色々考えた末、札幌へ出かけた。

選んだ理由は単純。①飛行機に乗って窓側シートから本州や海を眺めたい、②ミュージアムに行きたい、③人が少ないところに行きたい、である。その3つをかなえてくれた旅だった。

札幌でまず向かったのが北海道大学総合博物館。私はもともと明治期における日本人の英語学習に興味がある。北大はクラーク博士の指導の下、多くの日本人が必死に学んでいるのだ。そうした資料を見たくて足を運んだ。館内には当時の学生たちのノートなどが展示され、北大の由来や教育方針などが実によくわかった。

今回ご紹介するのは、北大の歴史的変遷を知ることができる一冊。北大の初期を支えた学生たちである内村鑑三や新渡戸稲造についても記されている。”Boys be ambitious”で知られるクラーク博士は、実は8カ月しか札幌に滞在していなかった。しかし、多くのことを後進たちに残している。

中でも印象的だったのが、クラーク博士着任当時のエピソード。設立にあたり既にできていた細かい校則案を見た博士は、「こんなもので人間が造れるか、『Be gentlemen』 この一言で十分だ」(p54)と言ったとされている。つまり、こまごまとルールを作るのではなく、一つしっかりとした哲学を示し、それを軸に学生たちが自ら考える大切さを唱えたのだ。ちなみに東京都練馬区にある私立・武蔵高等学校・中学校の理念は「自調自考」である。北大に通じると思う。

今の時代、ルールやマニュアルなどが世の中にはたくさんある。しかし、本当に大事なのは、簡潔な原則に基づき、自ら考えて生きることなのではないか。そのような読後感を得た。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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