INTERPRETATION

第558回 ピアノ再開へ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

長らくご無沙汰していたピアノを再開することにしました。3歳から18歳まで習っていたのですが、大学入学後にクラシックギターアンサンブルのサークルに入部。ピアノから遠ざかりました。ピアノは自宅にあったものの、その後、指導を仰ぐことはなかったのですね。

イギリスに暮らしていた小中学校時代。現地校では芸術分野の個人レッスンがありました。週一回お昼休みに外部講師が来校され、30分ほどですが密度の濃い指導を仰ぐことができました。イギリスでは音楽大学がグレード検定を実施しており、その取得を目指すというカリキュラムです。音楽理論や古典・近代音楽、初見演奏など、様々な練習をすることができました。とてもありがたい内容でした。

現地校での私は英語ができず、スポーツもからきしダメ。そんな私が「勝負」できたのは算数と音楽だけでした。よって、ピアノは唯一自分の存在をアピールするものだったのです。ひたすら練習に励みました。

帰国後に入学した高校は帰国生8割、一般生2割というユニークなところ。伸び伸びとした校風で、滞在国の語学が堪能な子もいれば、スポーツ万能、数学知識がずば抜けているなど、それぞれが得意分野を持っていました。私にとってはピアノがそれに相当していました。

しかし、新入生向けオリエンテーションキャンプで衝撃を受けたのです。クラス対抗で出し物をしたときのこと。一般生の一人がピアノを演奏しました。わずか16歳にしてプロ並みの演奏を披露、しまいには校歌のメロディをアレンジしてジャズ風に弾きこなしたのでした。参加していた教員生徒全員が感銘を受けました。

その子の才能はそれにとどまりませんでした。学期末の音楽テストは、クラスの前で演奏するというものでした。私はかなり背伸びして難関曲を選んだのですが、その子は何とチャイコフスキーのLPレコードを持ってきたのです。そして教室内のプレーヤーでレコードに針を落とし、グランドピアノの前に着席するや、あの冒頭メロディから奏でていきました。

以下は私が敬愛する故マリス・ヤンソンス指揮、バイエルン放送交響楽団の演奏。ピアノはイェフィム・ブロンフマン。チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」です。
https://www.youtube.com/watch?v=Xl6D4G_ceg4
「この曲は音大卒のプロ演奏家にしか弾けない」と信じていた私は、目の前の光景に圧倒されました。同い年の、同じ部活でいつもふざけてばかりの子が、これを演奏していたのです。私はそれまで内心、自分のピアノは人並み以上だと思っていました。けれども、高校で彼のような圧倒的な才能を持つ子を前に、「上には上がいるのだ。もはや謙虚にならなければいけない」と痛感したのでした。

彼は2年生になると海外留学を果たし、1学年遅れての卒業となったため、その後は疎遠になりました。風の便りでは、大卒後、マスコミに入り、その中で専属音楽家として活躍しつつ、多方面で音楽を提供していたそうです。そしてさらに年月が経った頃、病に倒れて帰らぬ人になったことを聞きました。若すぎる死でした。

私にとってのピアノは、人生においていくつかの意味合いを持っていました。幼少期はお稽古事としてのピアノ。海外時代は現地校で生き延びるための武器。高校時代は他者の才能に気づくというきっかけになりました。そして今、実に数十年ぶりに「またピアノを習おう」と思う自分がいます。

昔のようなテクニックで弾くことは、もう難しいかもしれません。しかし、私自身がこうして今も生きていて、ピアノを弾く自由がある。それに感謝し、音がもたらす心の安寧を享受していきたいと思います。

(2022年10月4日)

【今週の一冊】

「国立天文台教授がおどろいた ヤバい科学者図鑑」本間希樹著、扶桑社、2022年

日経新聞(もちろん、紙版を愛読!)の紙面下の広告に面白そうなタイトルを発見。昔から理系が大の苦手の私にとっては親しみやすそうです。難しいトピックにあたる際には難解書籍ではなく、親しみやすい本から始める方が頭に入るのですよね。

本書に出てくるのは古来から現代にいたるまでの科学者たち。コペルニクスやガリレイなど、そういえば理科の時間に習ったと思しき名前が並びます。それぞれの科学者、いずれも世紀の大発見をした一方で、実はかなり性格的に難ありという人も。そんなエピソードが盛り込まれています。

中でも関心を抱いたのが、ニュートン。万有引力の法則で知られていますが、実は繊細な心の持ち主。ゆえに他の科学者とケンカしまくりの人生だったとか。一方、日本のノーベル賞受賞者である小柴昌俊先生。なんと、「白紙答案が正解」という試験問題を出していました。

時代を経ればそれぞれの功績のみが歴史に残りますが、科学者とて一人の人間。タイトルの通り、「ヤバい」側面も色々ありです。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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