INTERPRETATION

第556回 休もう、うん

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳というのは、稀有な職業だと思います。確かに事前準備は大変です。寝る間も惜しんで早急に知識をインプットせねばならず、日本語・英語双方で瞬時に訳せるようにしなければなりません。両言語のトレーニングのみならず、いろいろなシナリオを考えて備えることも求められます。宇宙飛行士は最悪の事態を考えて訓練していますよね。そこまでとは言わないにせよ、通訳者も様々なシチュエーションを考えて本番まで準備を進めます。プレッシャーは高く、体調管理も必要。私など当日に緊張で過呼吸になりかけたこともあります。でも、自分が選んだ仕事。ゆえに真正面から立ち向かわねばなりません。ちなみにスポーツ選手は本番前に音楽を聴いて集中力を高めます。私も一時期、自分を鼓舞するアップテンポな音楽をガンガン聴きながら現場最寄り駅まで向かったことがありました。

そうした緊張感がある一方、仕事を通じて得られる喜びも多大です。何しろ自分が知らない知識を学べるチャンスなのです。仕事でなければ決して紐解かないような書籍や資料を読み、単語リストを作れば作るほど勉強している達成感も味わえます。未知の分野に触れることで自分の視野も広がります。これほど幸せな職業は無いと私は思うほどです。たとえ大変であっても、やりがいや生きがいにつながる。それが日々の自分を支えてくれるのですね。

一方、人は生きていれば照る日曇る日に見舞われます。私もこれまでいろいろな状況に直面してきました。適当に流して何とか早々に忘れられたこともあれば、なかなか厄介になって長期化してしまったケースもあります。サイボーグのような魂ではないので、これも人間として自然な反応なのでしょう。

この仕事をしていたからなのか、私生来の性格なのかはわかりませんが、こと私の場合「自分さえがんばれば何とかなる」という思い込みがあるのですね。「努力すれば、あるいは我慢すれば、ゼッタイに切り抜けられる」という、科学的根拠ゼロの思い込みがあります。もちろん、それで突破できれば良いのですが、そうもいかないのが人生というもの。そのような時、家族や友人、あるいは専門家のサポートにずいぶん救われてきました。けれども最近の私にとって最大の解決法となったのは「強制休暇」でした。

これまでも自分なりにオンとオフを使い分けてきたつもりです。でも、常時頭の中が緊張していたのか、完璧に休めてはいなかったのでしょうね。それで先日、思い切って旅行に出かけました。計画時に重視したのは「本州を出る」「飛行機に乗る」の2点。海外はまだ心配だったので、航空機で1時間強の場所を選びました。これが私にとって大正解だったのです。

何しろ、陸路ではもう地元に帰れない距離です。そうなると諦めもつき、日常からうまくカットオフされた感が出てきます。しかも私にとっては大好きな飛行機。乗っただけでワクワク感が高まりました。さらに旅先では地元の方やホテル、お店の人たちから笑顔と優しい言葉と元気を頂けました。日常生活でもそうしたやり取りはありますが、旅先だからこそ、つまり、一期一会だからこそ大きな意味合いを持つのですね。かなりタイトな旅でしたが、思い切って休んだのは本当に良かったと思ったのです。

バブル期の日本では「24時間戦えますか」というCMが一世を風靡しました。今でも海外と比べれば日本は生産性が低いと言われます。感染症ゆえに賃金低下や労働条件の悪化もあることでしょう。だからこそ働かねば、という気持ちもわかります。

でも、健康な体があっての仕事です。心や体が疲弊していては、良いパフォーマンスはできません。これまで私はマッサージやエステなどにお金を費やしてきましたが、それらの数回分で旅をすることができるのも、今回大きな発見でした。

「休もう、うん、これからも。」

そう思ったオフの旅でした。

(2022年9月20日)

今週の一冊

「おばけのどろんどろんのおかあさん」わかやまけん作、ポプラ社、1986年

前回ご紹介した幡野広志さんの本もポプラ社だったなと思いつつ、今回は同社が発行した絵本を取り上げます。あいにく某大手通販サイトには在庫が無いようですが、図書館では借りられます。

この本を手にしたきっかけは、世田谷美術館で開催されていたわかやまけんさんの個展を観たからでした。わかやまけんさんは「こぐまちゃん」シリーズの本で有名。我が家の子どもたちも幼いころ大好きでした。懐かしさもあって出かけたところ、展示室の中に「おばけのどろんどろんのおかあさん」の原画があったのです。

この物語はおかあさんのいないおばけのどろんどろんが、母親を探すというものです。作品の冒頭に描かれているのは、他の動物の親子。優しいおかあさんと子どものやりとりを見て、どろんどろんはおかあさんが恋しくなります。「ほめてくれる やさしい おかあさんが ほしいな。」と言って涙を「ぽろっと」こぼすくだりは、おそらく「子ども」共通の思慕でしょう。

そこで登場するのがお友達のねずみさん。悲しむどろんどろんと共におかあさんの居場所を考えてくれます。ねずみさんが想像力を駆使して魔法使いのように様々なものをどろんどろんの前に見せるも、どれも違ってしまい、そのたびにどろんどろんは涙を流します。しかし、ようやくどろんどろん自身が納得できる状況が出てきて、物語は終わります。とても感動的なお話です。

母親を思う子どもの心、お友達の寄り添う心など、この絵本の解釈は人それぞれだと思います。でも、テーマとなっているのは無償の愛だと感じた一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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