第555回 「きちんと感」礼賛態度
授業をしていてよくお受けする学習質問ナンバーワン(ランキングがそもそもあれば、の話ですが)は、ズバリ次の問いです:
「どのようにしたら単語や構文を覚えられますか?」
・・・うーん、絶対的正解があるなら、私の方が知りたいぐらいです。それぐらい、ことばというものには単語が無数にあり、構文なども複雑怪奇なもの(?)を含めればたくさんたくさんあるからです。
そこで私の答え:
「単語に関しては忘れてしまっても構いません。思い出せないなら、また調べれば良いのです。構文に関しては、こと日→英通訳の場合、『中学レベルの単純な構文』で乗り切ってOKです。」
このようにお伝えすると、みなさん内心「え?」と思っておられるのがわかります。なぜなら私たちは中学高校大学受験にいたるまで、単語はとにかく暗記すべきというスタンスで勉強してきたからです。いえ、大学に入ってからも、社会人になっても、各種英語試験があります。となると、「覚えなくては」という衝動にかられます。
一方、「中学レベルの構文」には理由があります。ひねった、あるいは、こなれた英語構文を日英通訳で作ろうとするも、構造がうろ覚えであったり、頭の中でワケがわからなくなったり、となると確実に自滅します。「ああ、文章が組み立てられなかった。変な日英になっちゃった」という思いは心を蝕みます。集中力は途切れ、失敗への恥ずかしさが尾を引きます。「聴衆の中に英語大好きパーソンがいたらどうしよう?チェック入れられたら??」などと思うものなら、なおさらパフォーマンスに影響を及ぼしてしまうのです。
だったら!(と書くと某鉄道会社のアプリCMのようですが)自分が確実に覚えている単純な構文、つまり、中学で習ったような文章を絶対にミスせずに組み立て、複数の英文をつなぎ合わせて訳した方が立派なパフォーマンスにつながります。ミスをしなかったということは、大いなる自信を与えてくれるのです。
というわけで、「英単語忘却大歓迎、本番では中学英語ウェルカム」にすれば、気持ちに余裕が出ます。
でも、私の場合、こうした「達観」が日常生活の他分野で応用できているかと問われれば、正反対です。自分の不得意分野となればなおさら。「こうせねばいけないのでは?」「理想は○○のはず」と、ネットや書籍で仕入れたパーフェクトビジョンを自分に課し、落ち込んだりしてしまうのです。
たとえばダイエット。「ああ、今日も食べ過ぎてしまった。どうしよう?」と思ったり、購入時にはパッケージをひっくり返してカロリーを凝視したり。スマートフォンの歩数計をチェックしては「ああ、今日はまだ527歩しか歩いてない・・・」という具合。
あるいは貯蓄。「最近新聞ではNISAについてよく出ているけど、そろそろやった方が良いかな?」と思って調べてみるも、数字や難解な財テク用語に見舞われて頭を抱えてしまいます。「私ぐらいの年齢になったら、みんな老後のこと、考えているのかな?」と不安になったり。
つまり、こういうことなのです。自分の得意分野なら人はいくらでもゆったり構えられます。失敗しても軌道修正すればOK。行き詰っても別の方法を考えれば良いと考え、自分に「逃げ道」を許しています。けれども、不得手カテゴリーになると、「せねば」強迫観念を自分に当てはめようとしてしまうのですよね。
得意でないことに対して、そうした「きちんと感」礼賛態度を改め、むしろ手放して生きていった方が、かえってうまく行くように思います。
(2022年9月13日)
今週の一冊
「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」幡野広志著、ポプラ社、2019年
前回このコーナーでご紹介した岸田奈美さん。彼女が著書の中で紹介していたのが写真家の幡野広志さんです。岸田さんの本の巻末に、お母様と弟さんとの3人で写っている写真があります。その撮影者が幡野さんだったのですね。
幡野さんは2017年に血液のがんと診断され、余命3年を宣告されます。そのことを機に、生き方や人間関係を見直しました。家族は妻と幼い息子です。
がんというのは、誰もがかかりうる病気です。そして一番辛いのは苦しい治療をせねばならぬ患者本人です。しかし、ネックとなるのは、本人以上にがん宣告をパーソナルに受け止める身内だと幡野さんは綴ります。幡野さんの母親は元看護士ですが、息子のがんについて受け入れることができなかったばかりか、昭和的価値観を持つ母親の方が「悲劇の主人公」になってしまい、幡野さんを苦しめました。その結果、幡野さんがとった行動。それは母親との絶縁だったのです。
本書には幡野さんの体験談の他、幡野さん同様にがんに見舞われていたり大変な境遇に置かれたりといった方が3名登場します。いずれも生きづらさや苦しみを抱えています。その根幹にあるのが、親子関係なのだと幡野さんは説きます。
「家族とは『与えられるもの』ではなく、『選ぶもの』なのだ。」「もしも改善の余地がない関係だったとしたら、たとえ親子であっても、その関係を断ち切ってかまわない」(p136)
親に酷い仕打ちをされたり、愚痴を幼いころから聞かされたりという体験は、子どもの「こころにどれだけの傷を蓄積していったか」(p127)と警鐘を鳴らし、「親だって、ひとりの未熟な人間でしかない。聞きわけのいい子どもとして生きることは、親に人生を丸投げしているようなもの」(p160)とも述べています。
親子関係が愛情に満ち、子どもが何歳になっても親の寄り添いがあると安心できることこそ、誰にとっても人生の幸せにつながると私は思います。しかしその一方で、それがもはや破綻してしまっているのであれば、自分で人生を選び直すことが大事です。「誰かに奪われかけた自分の人生を取り戻す」(p201)ことの大切さを、余命宣告された幡野さんは力説します。
人間関係、とりわけ親子の在り方について考えたい方にぜひとも読んでいただきたい一冊です。
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