INTERPRETATION

第552回 仕事モードも良し悪し

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳業務の依頼を頂いた時点で、聞こえてくるのは「ゴング」。もちろん空想上ではありますが、その時点から当日の通訳業務開始第一声に至るまで、通訳者はひたすら準備をするのですね。

で、その準備たるもの、実に多岐にわたります。たとえば「自動運転車に関する国際セミナー」の会議を仰せつかったとしましょう。まずは依頼時点で私自身が「自動運転車」について知っているか否かで、その後の準備は大きく変わっていきます。もし答えが「イエス」であれば、その後は実にシンプル。知識構築に励むべく、専門書を読んだり各種HPを眺めたりと応用知識のインプットに励むことができます。

でも、「自動運転車ってナニ?」「聞いたことはあるけれど、具体的にわからない」「ハイブリッド車とどう違うの?」などという基礎知識レベル以下(←すべて私の実例)であった場合、ベーシックなことから猛勉強せねばなりません。

今は自宅にいてもネットで調べられますので、まずはウィキペディアで「自動運転車」と入力して閲覧できるでしょう。とはいえ、ネット情報も意外と専門的。となるとさらに基礎レベルからでなければなりません。よって私の場合、Yahoo!きっずや官公庁のキッズサイトなどを閲覧したり、図書館に出かけてポプラ社の子ども向け百科事典「ポプラディア」や朝日小学生新聞のような子ども向け解説が充実した資料にあたるようにしています。遠回りのようでも、こうして基礎の基礎から始めて少しずつレベルアップしていった方が、読むスピードも加速するので実は時間節約になるのですね。

調べ物はネットや文献などの「活字」に限りません。YouTubeで登壇者の動画を探して視聴するのも大事な作業です。話し方の特徴、スピード、非英語圏話者であればどのようなクセがあるのかなど、動画を通じて知ることができます。他にもTEDトークがあればそちらも欠かさず視聴します。話者の英語と話者の専門分野を同時進行で知るうえで、こうした動画サイトは欠かせません。

以上がメインの調べ物になるのですが、時間があれば他にも取り組みます。たとえば登壇者のプロフィールや勤務先についてのリサーチです。どのような生い立ちなのか、卒業大学名やこれまでの職務経験などを知ることで、話者の人となりがより見えやすくなります。勤務先についても沿革や事業分野、企業理念なども調べておくと、いざという時とても役に立ちます。こうした土台を元に、当日の講演内容も想像しやすくなるのです。

このように列記してみると、通訳者の準備というのは、宇宙飛行士とまでは言わないものの、ありとあらゆるシナリオを想定した上で備えているという印象です。ちなみに宇宙飛行士は訓練の中で緊急事態への対処法を徹底的におこなうのだそうです。油井亀美也宇宙飛行士が書いておられます:
https://iss.jaxa.jp/astro/report/column/yui/09.html

私自身、通訳の仕事を長年続けてみて思うのは、「通訳本番中に起こるかもしれない多様な緊急事態に備えるべく、事前予習をしている」ということです。実際には準備したことのほんの数パーセントしか出てこないことも珍しくありません。いえ、むしろ「勉強したけど出なかった」という割合の方が多いです。でも、フリーランス通訳者は「今日の仕事の出来具合が次につながる」のです。うまく行けば将来ご指名を頂けるかもしれませんし、失敗すれば二度と声がかからないという厳しい世界です。だからこそ「準備が大変だぁ!!」と言いつつ本番まで頑張れるのかもしれません。

ただ、ここで注意事項を一つ。「最悪の事態に向けた備え」は大切なことです。でも、「生き方」そのものにおいて「最悪の状況」ばかりを想像していたら?たとえば「交通事故に遭ったらどうしよう?」「自分が難病になったら?」「人間関係で失敗したら?」という具合。確かに考えておくことは大事ですが、こうしたことばかり頭の中で描いてしまうと、かな~り疲弊します。

となると、やはり「マインドフルネス」に集中した方が幸せかも、と私は思います。

(2022年8月16日)

【今週の一冊】

「クルドの食卓」中島直美著、ぶなのもり発行、2022年

先日「東京クルド」という映画を観ました。主人公は日本生まれのクルドの子どもたち。在留資格が無い中、未来を夢見て生きる若者たちが描かれています。クルド民族とは「国家を持たない世界最大の少数民族」。トルコやイラク、シリアなどに分布しています。残念ながらそれぞれの場所で迫害の憂き目にあい、苦しい状況に直面しているのです。そうした境遇から脱出して来日はしたものの、在留資格を得られず、日本生まれ日本育ちの二世たちも大変な人生を歩んでいます。

今回ご紹介するのは、埼玉県川口市でクルド料理教室を営む中島直美さんによる一冊。川口市は日本でもクルド人口が多いとされています。本書は写真付きのオールカラー。日本にある食材で作れるレシピが満載です。

クルド人は大家族が多いとされます。クルド風ピザは皆でワイワイ楽しみながら食べられるようなサイズに食材が載った一品です。中東のクルド人は家の外のかまどでピザを焼きますが、在留クルド人は日本の家電をフル活用するそうで、ホットプレートが重宝されています。

個人的に魅了されたのが「キュウリのヨーグルトサラダ」。家にあるものですぐに作れそうです。一方、「テナシール」と言われるライスプディングや、「ドトゥル」(揚げ菓子のシロップ漬け)など、コンビニスイーツとして販売したら大ヒットするのではと他力本願(?)で想像したりしています。

食を通じてクルド民族を知ることのできる、貴重な一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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