INTERPRETATION

第550回 「今、ここ」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

敬愛する慈善活動家の故・佐藤初女先生。自宅を開放し、手料理でもてなしながら、悩める人々の心に寄り添いました。カウンセラーでも医師でもない先生は、心を開いて相手の話を聞くことだけに注力したのです。多くの訪問者が先生からの共感を受け、生きる力を取り戻しています。中には自殺を思いとどまった人もいるのです。

そんな初女先生が大切にしておられたのは「祈り」。料理においても日々の生き方においても、ゆったりとした心で目の前のことに集中し、いつくしみながら取り組んでおられました。このようなエピソードを先生の多数の書籍で目にするにつれて、私自身、自分の人生との向き合い方を考えるようになりました。

今、振り返ってみると、手探りをしながら仕事にまい進したのは今から20年ほど前のこと。ちょうど上の子が生まれた直後でした。何とか夫婦でやりくりをしていたものの、勤務体系の変更もあって、このまま英国生活をすることが難しくなったのです。せっかく付与された永住権も捨ててBBCを退職して帰国。お腹の中には2番目の子どもがいました。帰国してからはとにかく働かなければならないと必死でした。

少しずつ仕事が来るようになったのは、子どもたちが幼い頃。ただ、通訳や指導の場合、準備がすべてです。一方、目の前の幼子たちの世話や家事もあります。慢性的な寝不足状態で、すぐに不調を覚えるような状況でした。

今になってようやく、「あんなにガツガツ仕事をしなくてもよかったのに」「子どもはすぐ大きくなってしまう。もっとセーブして子どもたちとドップリ遊んでおけば」など、いろいろな反省点が出てきます。けれども渦中にいたときは、「子育ての大変さを仕事で発散する」という部分もあったのですね。よって、仕事を極端に削ることははばかられました。「仕事を引き受ける→予習に忙殺される→当日緊張する→くたくたになる→子育てに正面から向き合えなくなる」という悪循環が続きました。

人は「今」と「未来」があるのみですので、今さら過去を変えることはできません。懐かしさ以上に後悔が出てくるのならば、それに時間を費やしてあれこれ悔やむよりも今この瞬間を充実させる方が生産的でしょう。どのような選択をしたとて、人はどこかで何らかの形で悩んだりちょっぴり残念に思ったりするものなのだと思います。

もう一つ、20年前の私が直面していたのは、心理面での問題でした。詳しくは昨年11月の第515回の本稿で記しています。

当時の私が子育ての辛さから仕事に逃げたのは、ほかでもない上記記事で述べた「人間関係」が非常に大きな位置を占めていたからでした。もしその部分が良好であったなら、私は帰港できる場所を持ち、エネルギーを充電させて子育てや仕事、家事に安心して戻れていたと思います。親が自分の味方になってくれることは、子どもにとって絶対的な条件であるからです。

最近、色々と省みてはこの20年間の自分の心の変遷を改めて感じます。善悪を判断したとて、過去は変わりません。誰かのせいにするのは簡単ですが、それも不毛というもの。なぜなら自分以外の人は決して変われないからです。

私は仕事メインで生きてきたのだと思います。200パーセントを子育てに注げなかった母親だと痛感します。それでも今、私に心を開き続けてコミュニケーションをとり続けてくれる子どもたちには感謝しかありません。だからこそ、私が味わったような生育ではなく、その正反対のことを子どもたちには与え続け、寄り添い続け、祈り続けたいと思っています。初女先生の「今、ここ」という言葉を意識しながら。

(2022年8月2日)

【今週の一冊】


「船旅の文化誌」富田昭次著、青弓社、2022年7月29日

社会人になってから参加した総務省(現内閣府)主催の「東南アジア青年の船」。これを機に私の人生観は変わりました。ASEAN加盟国の青年たちと2カ月近く行動をともにしながら意見交換をしたり、現地でホームステイをしたりと盛りだくさんのプログラム。多くのことを学び、考え、世界が広がりました。この研修の移動手段は、商船三井の「にっぽん丸」という客船でした。

普段はなかなか乗れない豪華客船。政府の補助金によりお手頃価格で参加できたプログラムです。つまり、納税者のお金でもあるのですよね。身の引き締まる思いをしながら、参加をしたのでした。

今回ご紹介するのは船をテーマにした一冊。飛行機のない時代は船が移動手段。本書には江戸末期から戦前までの船旅が開設されています。写真も豊富で、乗船した著名人のエピソードや船内設備、食事メニューなど、幅広く解説されています。

中でも興味深かったのがパナマ運河に関する記述。実はパナマ運河建設には青山士(あおやまあきら)という日本人技師が尽力しています。帝大土木科卒業直後にパナマ入りすべく船に乗るも、旅費を賄うために「甲板の洗い掃除などを手伝って小銭を稼ぐ」(p161)ことをしたのだそうです。交通の要となるパナマ運河に日本人が関わったのは我が国の誇りと言えます。

参考文献も豊富に紹介されているため、学術論文としても大いに役立つ一冊。船好きの方も、船に憧れる方にも手に取っていただきたい書籍です。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END