INTERPRETATION

第549回 次へつなげる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

随分前のこと。とある通訳業務で忘れられない体験をしました。

当日まで「資料は一切ありません」と言われ続けて現場入り。本番直前に大量の資料を手渡されました。この日は先輩通訳者と私の2名体制。この資料をとにかく読みこなさなければ太刀打ちできません。あと数分で会議は始まります。先輩はこうおっしゃいました。

「メモ取のサポート体制は無しにして、資料のサイトトランスレーションに励みましょう。」

2名の通訳者が担当する場合、同時通訳中の通訳者をもう一人がサポートします。固有名詞や数字、難易語などをメモしていくのですね。通常はそのようにして支えあいながら最高品質の同時通訳を目指します。しかし、その日は資料が半端ない量でしたので、サポートは断念しましょうというのが先輩の考えでした。

トップバッターは先輩でした。私は先輩が訳しておられる10分間を、手元の資料の解読に励みました。サイトトランスレーションによる同時通訳になるわけですので、ひたすらその紙資料にスラッシュを入れていきました。ところがその直後、先輩が突然自分のマイクをオフにするや、

「スラッシュを入れるボールペンの音、うるさいからやめてっ!!!」

と半ば悲鳴に近い声でおっしゃったのです。

突然のことでビックリしました。「え?何か私、いけないことしてしまった?ボールペンの音がうるさいってどういう意味だろう?ノック式のボールペンでないからカチカチ言っているわけでもないのに」

先輩の発言に困惑(&混乱)しましたが、少しして意味がわかりました。ボールペンでスラッシュを入れる際、ボールペンの先端が紙に着地しますよね。その着地音が耳障りだった、というわけです。なるほど、と思いました。

「うーん、今日はこれ以外筆記用具、無いのだけどなあ」

というのが現状でしたが、何しろこちらは駆け出し通訳者。とにかく先輩が集中できるように息を殺しつつ、サイトラはあきらめて資料読みに励んだのでした。その日の私の教訓、それは

「通訳現場には鉛筆も持参すること」

でした。鉛筆なら着地音も気になりませんよね。

先輩の発言を「神経質」ととらえるか、「わかるわかる」と解釈するかは人それぞれ。人間ですので、「耳障り・目障り」という部分は個人差があります。とにかく集中力がすべてのこの仕事。少しでも快適な環境を作ってこそがパフォーマンスの良さにつながるのです。

ちなみに私の場合、現場のサポート体制は、隣でひたすらメモを取られると、手の動きが視界に入って気になり、集中できないタイプ。「困ったときに視線を送るので、その時はサポートしていただけると嬉しい」という価値観です。私同様のタイプの方にこれまで何度かお目にかかったので、嬉しく思ったことがあります。

フリーランスで仕事をしていると、一つ一つの仕事が次へとつながります。先輩後輩を問わず、お互いに気持ちよく仕事をする。お客様に最高の品質をご提供することが、すべての方の満足につながり、それがこの業界自体を支えることになります。そのためにも各業務において反省点や改善点を発見し、次に生かすことを続けていきたいと思っています。

(2022年7月26日)

【今週の一冊】

「団地の給水塔大図鑑」小山祐之著、シカク出版、2018年

戦後の日本を象徴する「団地」。最近は各地で建て替えが進んでいます。街並みはおしゃれになり、高度経済成長を思わせる景色とは大きく変わりつつあります。

私にとっての団地とは、羊羹型の建物がずらりと並び、中央に商店や公園があり、敷地内に大きな給水塔がそびえる、というものです。時代に流れとは言え、そうした景色が少しずつ消えていっているのですよね。

今回ご紹介する一冊は、給水塔をこよなく愛する著者によるもの。平日は会社員として働く傍ら、ひょんなきっかけで給水塔に魅せられたのだそうです。本書には日本全国に建つ給水塔がカラーで紹介されています。著者の小山氏によれば、団地の建て替えと共に給水塔も役目を終え、解体されてしまうのだそうです。

「自分の興味に任せ、何か特定のモノをコレクションすることはとても楽しい」(p210)と述べる著者。自分のイチオシがあるということは、それが自分を支えてくれ、自分を幸せにしてくれると思います。

著者の給水塔愛がぎっしり詰まった一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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