INTERPRETATION

第548回 生き方も仕事も正々堂々と

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「労災」ということばを初めて知ったのは、フリーランス通訳者になって間もない頃。父が通勤中にバイクで転倒して骨折、入院。勤務先から父は労災認定を受けたのでした。「ロウサイ」について知識のなかった私はこの時初めて、職場や通勤途上において災害の補償を勤務先がしてくれることを知りました。

ちょうど時期を同じくして、私は少しずつフリー通訳の業務が増え始めていました。そんなある日の事。大規模な通訳案件が発生したとのことで、某人材派遣会社に呼ばれました。説明会が開催され、業務の具体的な内容説明があり、質疑応答時間となりました。

父の労災のことが頭にあったため、私は挙手しました。

「もし通訳現場の行き帰りに万が一事故などが発生した場合、保険はどうなるのでしょうか?」

この時の光景は今でも覚えています。なぜなら、担当者の答えが明白でなかったからです。何となくもごもごと口ごもり、「個別に後ほどお答えしますので・・・」と言われるも回答は無し。後ほど自分で調べてわかったのは、「フリーランス(自営業者)には労災保険も失業保険も無い」というものでした。

そうなのです、同じ通訳者でも「社内通訳者」のように組織に所属して一定期間そこで勤めるのであれば各種保険は付与されます。しかし、自営業者にそのようなものはありません。自分の安全も健康も失業に備えた貯蓄も、すべて自力で備えておかなければいけないのです。

フリーになった当初はこのことに驚きました。なぜなら私は大卒後に会社員となり、そこでは手厚い補償があったからです。好きで選んだフリーランスとは言え、こうした保護がすべて途切れるというのは考えようによっては怖いとさえ言えます。

「万が一病気になったらどうしよう?もし現場に行く途中に事故に遭ったら?」

心強いバックアップがあった会社員人生から、すべて自力でやらなければいけない。

私にとってそれは「束縛」を手放した代償として得た「自由」でもありました。

覚悟を決めてフリー通訳者になったものの、迷いは続きました。そして一度だけ「やっぱり組織人にならないと将来が不安」との思いで再就職をしたことがあります。しかし1カ月で音を上げました。満員電車、毎日毎日同じことの繰り返し、職場の人間関係など、やはり自分にはことごとく向かないと改めてわかったのです。

それを機に私は腹をくくり、フリーで生きていこうと決め、ずいぶん年月が経ちました。世間からは「老後2000万円」「終活のやり方」など、未来に向けて様々な文句が聞こえてきます。一つ一つに耳を傾ければ、私は準備万端状態ではないかもしれません。

それでもなお、私は通訳という仕事が好きなのです。肉体的にハードであったとしても、毎回新しい話題を猛勉強するのが生きがいなのです。学びや仕事が私から奪われてしまったら、とても悲しい。ゆえにこうした思いが私を今に至るまで突き動かしてくれているのだと思います。

世の中には様々な働き方があります。「生き方」に絶対的正解がないのと同様、仕事にも「これが唯一正しい」というものは存在しません。一度しかない人生です。しかも現在の健康状態や頭脳回転状況が永続するわけでもありません。だからこそ、自分が納得した人生と働き方をしっかりととらえ、正々堂々と歩み続けたいと思います。

(2022年7月19日)

【今週の一冊】

「もしも、エリザベス女王のお茶会に招かれたら?」藤枝理子、清流出版、2013年

数週間前にエリザベス女王の在位70周年祝賀行事が行われました。それと同時期に公開されたのが映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」です。

その中で印象的だったのがガーデンパーティーのシーン。王室の方々を始め招待客の服装がとても華やかで大いに見とれました。もう一つ注目したのがガーデンパーティーでの飲食の光景。焼き菓子やサンドイッチなど実においしそうでした。

今回ご紹介するのはイギリスのアフタヌーン・ティーを愛してやまない著者による一冊。お茶会におけるマナーがわかりやすく書かれています。あの3段重ねスタンドに載るお料理やスイーツにも食べる順番があること、カップやサンドイッチを右・左どちらの手で持つのが正解なのかなど、役立つ情報が満載です。著者の藤枝氏はサロネーゼの草分けとも言える存在で、惜しみなく様々なヒントを披露なさっています。

「マナーは堅苦しい飾りものではなく、あなた自身を輝かせる一生の宝もの」という結びのことばが心に響きました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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