INTERPRETATION

第531回 チームの一員

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「老後2000万円」というキャッチフレーズが大きな話題になったのは数年前のこと。平均寿命が延びる中、いかにして健やかに暮らし、金銭面での不自由なく天寿を全うするかは大きな課題と言えます。

そうしたことから私も投資について勉強し始めました。もっとも私自身、資産家ではありませんので、許容範囲で少しだけ手がけてみたのですね。幸い運用会社の担当スタッフさんが実に丁寧で助かりました。

先日のこと。そのスタッフさんから電話がありました。その会社が別件でマスコミに取り上げられたため、それに関するお詫びの連絡でした。

会社というのは一人一人の社員から成り立ちます。私の担当者さんが直接何かをしてしまったのでなくても、会社組織全体が新聞の見出しになってしまえば、それは社員全員をも表しかねません。それに関する謝罪や説明は、残りの組織メンバーにかかってしまうのです。実に大変な作業となります。電話口でお話を伺いながら、実に気の毒に思えました。

私自身、フリーランス通訳者としての年月が長くなりました。フリーと言うと一国の主のようなイメージを抱かれます。確かに社内独特の人間関係に心を砕く必要もありませんし、満員電車に揺られることもほぼ皆無です。自分でスケジュールを組めますので、オフピークに旅行や美術館を楽しむこともできます。空いている時間に病院、銀行、郵便局、市役所などの所用も済ませられます。大いに時間節約人生です。

でもだからと言って、完全に一匹狼(ちなみに英語ではmaverickと言います)でもないのですよね。国際会議では複数の通訳者と交代しながら訳出しますので、チームワークが大事になります。最近はZOOMを使ったセミナー通訳が多いですが、その場合、主催者側から仕事を請け負いますので、聴衆からすれば私たち通訳者は主催者の一員と見なされるでしょう。テレビの同時通訳の場合、局側からご依頼をいただきますので、視聴者から見ると通訳者はテレビ局側の人間ということになります。

つまり、万が一、通訳者が誤訳をしてしまえば、お客さまは「通訳者+クライアント全体」に対して「あれ?間違っているよね?」と思うことになるのです。通訳者が直接誤訳を訂正できなかった場合は、クライアントが誤訳についての釈明をせねばならないケースも出てきます。それだけに誤訳というのは本当に怖いのです。

通訳者は生身の人間です。ついうっかり間違えてしまうことはあります。ただ、外科医の手術同様、「あ、間違えちゃった!」では済まない職種です。となると「間違わないようにするために無難に訳すか?ざっくりと意訳するか?」という安全ルートも一案となります。訳語に自信が無い、固有名詞が聞き取れなかった、数字が早口過ぎたなどなどの際、「ざっくりと」訳した方が身を守ることになります。でも、いつもそのようにして安全策ばかりをとっていたら、高精度の訳出はできません。ゆえに常に誤訳のリスクと戦いながら通訳をしているのです。

フリーランスであったとしても、常に「チームの一員なのだ」という意識を強く抱きながら、これからもこの仕事を続けていきたいと思っています。

(2022年3月8日)

【今週の一冊】

少食を愉しむ シンプルにやせる、太らない習慣」ドミニック・ローホー著、原秋子訳、幻冬舎、2020年

著者のローホー氏はフランス出身。シンプルライフを提唱されており、これまでもベストセラーを出しています。今回のテーマは「食」。私自身、最近、食が少しおざなりになっていると思い、手に取りました。

本書は単行本にしては300ページ以上という、なかなかの大著ですが、目次が細かく書かれているので、急ぎの際は気になる箇所から読むのでも良いでしょう。食のメカニズムや人間の意識、心理など、食べることに向き合う上でまずは押さえておくべき話題が冒頭に書かれています。

ローホー氏が一貫して述べておられること。それは万人にとっての決定的正解はない、というものです。たとえば「○○だけで痩せる」「△△制限ダイエット」など、確かに短期的な効果は期待できますが、挫折してリバウンドするのが落ちです。そうなれば余計みじめになってしまいますよね。精神的ダメージが余計こころの余裕をなくし、健康的な生活を送りづらくなるのだと私は痛感しました。

大切なのは、まずは自分の体調や心理状態を知ること。そして自分に合った方法を確立していくことです。「朝食を多めにして夕食は軽く」という一般論ももちろん効果はあるでしょう。でも、「私は昔から朝ご飯を軽めにして、夜はやっぱりきちんと食べたいな」というタイプであれば、その方が長期的に見れば健康な日々を送れるはずです。あとは量さえ意識して食べ過ぎを防げば良いのですよね。

食だけでなく、身だしなみやファッションなど、トータルでとらえて日々を大切に過ごすことも本書では推奨されています。ヒントも満載で読みごたえのある一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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