INTERPRETATION

第529回 人生の食中毒

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

今から20年以上前にBBCで仕事を始めた際、私が一番気を遣ったのがaddictionという単語でした。drug addiction、alcoholic addictionなどがニュースでよく出てきたのです。凶悪事件が起きて、その背景にdrugがあった、あるいはセレブが事故を起こしたらalcoholic addictionの過去があったなどなどです。

当時先輩から言われたのが、「addictionを「中毒」と訳さないように」でした。放送通訳での正しい訳は「依存症」なのだ、と。

理由を聞いてなるほどと思いました。「中毒」と言うと、自ら率先して薬物やアルコールに手を染めるイメージがあります。しかし、患者の中には様々な背景により依存するようになってしまった、本人も早く断ち切りたいと思っているという状況があるのです。ゆえに「中毒」ではなく「依存症」なのですね。

残念ながら薬物やアルコール問題はこの世から無くなってはいません。天然痘(smallpox, variola)は1980年にWHO・世界保健機関により根絶が宣言されました。ポリオ(polio)は2020年にアフリカ大陸で根絶となり、残るはパキスタンとアフガニスタンだけです。病気や感染症はこうして医学の進歩により無くなりつつありますが、薬物とアルコールはむしろ深刻になっているのです。

話題が「中毒」なので、もう一つ単語を。

「食中毒」ということば。英語はfood poisoningです。この日本語を見るたびに私は「食への中毒(依存症)」では無いのに、なぜ「中毒」なのかと内心ツッコミを入れていました。それとも「食の中に毒がある」という解釈??

早速調べたところ、「飲食物の中に有害な毒素があり、それを摂取した結果、嘔吐や下痢などの中毒が引き起こされる」というのが定義だそうです。つまり、ここで言う「中毒」はpoisoningなのです。薬物中毒の中毒はaddiction(嗜癖)のことです。「依存症」は英語ではdependencyですから、何やらややこしいですよね。

ところで2月20日の北京五輪フィギュアスケートのエキシビション。羽生結弦選手が演技後のインタビューで、「不条理なことはたくさんあるが、前を向いて歩いていきたい」と述べていました。とても印象的なことばでした。

人は生きていれば想定外の場面に直面します。自分の計画と正反対になることもあるでしょう。どれほど努力しても報われない時期が続くこともあります。とんでもない出来事や人間関係に巻き込まれ、辛く苦しい思いをしてしまう。それは誰にでも起こり得ると思うのです。そんな「不条理」を私はいわば「食中毒の一種」と最近とらえるようになりました。

しんどい状況は人生の一時期における突発的なpoisoning。「なんで『食中毒』に遭っちゃったのよぉ~?」と嘆いたとて、見舞われたならそれは仕方ないこと。適切な薬や休養で治していくことが肝心なのですよね。

そのようにとらえてみると、不条理も受け入れられそうな気がします。

(2022年2月22日)

【今週の一冊】

“Risk: A User’s Guide” Stanley McChrystal & Anna Butrico著、Portfolio、2021年

著者のスタンリー・マクリスタル氏はアメリカ陸軍出身。アフガニスタン戦争で司令官を務めました。現在はビジネスコンサルタントをされています。ちなみに氏が退役した時の階級は「大将」。英語ではfour-star generalと言います。本書は司令官という立場からとらえたリーダーシップ論です。

340ページ強という大著ですが、章立てがわかりやすく、章末にはまとめやエクササイズもあります。索引も充実しているため、好きな個所から読むこともできます。

一番印象的だったのはプロローグの冒頭。洋書では章の始めに格言がよく紹介されます。マクリスタル氏が引用していたのは古代ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスのことばでした。私は学生時代に精神科医・神谷美恵子先生の著作に大いに感銘を受け、先生が訳したマルクス・アウレーリウスの「自省録」はバイブルとなっています。そのローマ皇帝の言葉が最初にあったのは嬉しい出だしでした。

マクリスタル氏が一貫して述べているのは、リスクに対する4つのアプローチ。具体的には”Detect(検知する)、Assess(評価する)、Respond(対応する)、Learn(学ぶ)”です。目の前で危険的な状況が発生したら、まずはその事実を認め、評価・分析をします。それに応じて対処し、学ぶべき教訓を引き出すという一連の流れが大事なのです。戦場で修羅場を潜り抜けてきた司令官ならではの具体的事例が本書には沢山紹介されており、非常に考えさせられます。

中でも印象的だったのは、”the greatest risk to us as individuals, and to our organization, is us”(p9)という文章でした。たとえ身体的危害が降りかかってきていなくても、リスクに対する無策こそが最大のリスクである、というわけです。

もう一つ、テクノロジーについての第6章も有意義でした。章末には、「技術の進化とともに我々も進化せねばならない。積極的にそれを認識して臨むべきだ」とあります。AI通訳がますます進歩する昨今、いずれ商談通訳も医療や司法通訳もAI通訳が担う日が来るでしょう。その際、技術の暴走や誤作動があった場合、誰が責任をとるのか。私たちは考えておかねばなりません。

一方、「弱いリーダーシップの症状」も紹介されています。具体的には:

*ミッションが不透明
*戦略が欠如している、あるいは遂行できない
*コミュニケーションが貧弱
*情報を積極的に求めたり適応したりできない
*倫理観と信念の欠如
*機能不全

弱いリーダーが君臨すれば、会社であれ少人数の団体であれ家族であれ、うまく機能しなくなると私は感じました。ビジネス書としてだけでなく、心理学や人間関係の観点からお勧めの一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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