第121回 夏こそ異文化体験
かつてイギリスに暮らしていた頃、書店でフシギな一角を見つけました。「苦情の手紙の書き方コーナー」です。アメリカほどではないものの、イギリスも訴訟社会です。自動車事故の際、安易に謝罪してはいけないという価値観で動いています。お店のサービスでも「自分の業務範囲はここまで。それ以外のことは知らない。だから苦情を言われても私に責任はない」と言われることがあります。ゆえに責任者は誰なのか、どう弁償してもらうかを相手に伝えるために「苦情の手紙の書き方本」が売れているのです。
私も何度かそうした書状を出したことがあります。たとえばクリーニング店に出していた赤いジャケットを引き取りに出かけた時のこと。カウンターに出されたのは私のものとは異なる、ペラペラで特大サイズの赤ジャケットでした。
「あの、これ私のではないんですけど・・・」
「あ、あなたの赤ジャケットね。あれ、作業工程で破れちゃったんだよ。古かったしね。だから似たようなものを入れておいたよ。」
このような返事が店員さんの口から出たのでした。
もし私が店頭で気づかなければ、私はポリエステルてかてかジャケットにお金を払い、持ち帰ったことになります。そのまま翌シーズンまでクロゼットにしまったならば、1年間は気付かなかったでしょう。
日本では考えられない応対に唖然としつつ、先の店員さんは「でもボクの責任じゃないからね」と追い打ちをかけます。「ならばそちらの上司に話したい」と言うと、「今はここにいない。本部に連絡して」と会社の住所を渡されました。
そこで出番となったのが先の「苦情の書き方本」だったのです。本書をめくると、ありとあらゆる状況に応じた苦情の手紙のひな形が掲載されています。あとは自分の置かれたシチュエーションに基づき、文言を入れれば完成です。今回の「クリーニング事件」を始め、「ネガ切断事件」「巨額引き落とし事件」など、私もずいぶんお世話になりました。
仕事でイギリスに暮らしていたのはわずか4年ほどですが、日本に帰国したころにはすっかり現地の価値観が染みついていたようです。現に追突事故を起こした際、初めての事故だったこともあり、気が動転して最後の最後まで謝ることができませんでした。大事故ではなかったとは言え、まずはぶつけた私が丁寧に謝るという基本ができなかったのです。今振り返ってみても、本当に申し訳なかったと思います。
最近は海外に行かない人が増えていると聞きます。近年の日本の大学は交換留学制度が充実してきましたが、就職活動が気になるのか、以前ほど人気がないようです。かつて学生時代に学内交換留学に応募したものの、「あなたは幼少期に外国にいたから対象外」と言われて悔しかったことがありますが、そのころと今では大きく異なります。今なら格安航空券でいつでも気軽に海外へ飛べるのに、です。
先の「クリーニング事件」のようなオドロキ異文化体験は、現地にいてこそ体験できます。そのひとつひとつがストレスになることもあるでしょう。けれどもそうした海外ならではの慣習を肌で感じ、日本帰国後の逆カルチャーショックを味わうことも、とても貴重だと私は思うのです。
あと1カ月もすれば夏休み。「ウェブカメラで現地の様子はわかるし」「わざわざ行かなくても海外の情報はネットで見られるのだから」などともったいないことを言わず、ぜひ国外ならではの実体験をしてみてはと思います。
(2013年6月24日)
【今週の一冊】
「国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント」小川榮太郎著、幻冬舎、2013年
この原稿を書いている6月24日は、ちょうど都議会選挙の結果が出たばかり。今回は自民党と公明党が圧勝した。民主党は大敗である。投票率は過去2番目の低さではあったが、数字だけを見ると民意がどちらに流れているかがよく分かる。
放送通訳の現場では海外の政治ニュースがよく出てくる。アメリカの総選挙はなかなかややこしいが、それでも一度決まればコロコロと人が入れ替わることはない。それと対照的なのが日本の政治で、年に何度も閣僚が入れ替わり、総理大臣もこの数年で何人交代したか分からないほどである。
ただ、そうした日本の状況を嘆いたとしても、その原因を作ったのは私たち国民だ。民主主義に則り選挙が行われ、私たち一人一人の票が反映されて、過去数年間の政権が続いてきたからである。今の世の中を批判するならば、まずは私たち自身がしっかりと未来を見据え、日本という国のあり方を考えねばならない。
本書は安倍政権が誕生するまでの道筋を描いたものである。「お腹を壊して辞めちゃった」と揶揄された安倍総理がどう内省し、信念を持って復活したかが綴られている。
自民党総裁選で安倍氏が決定した直後から、私が担当するCNNでも日本に関するニュースが増えた。本書のオビには「安倍政権はぎりぎりで間に合った奇跡の政権」とある。日本が再び世界の舞台で存在感を示す今、政権はどう歩んでいくのか。また、私たち国民はどうあるべきか。そのようなことを考えさせてくれる一冊であった。
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