INTERPRETATION

第528回 数字は重要だけど

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳現場でもとりわけ細心の注意を払うのが「数字」。何しろ間違えたら大問題です。たとえばmillionとbillionを勘違いしたら、商談通訳ではそれこそ訴訟モノに匹敵するでしょう。ちなみに日本ではまださほど無いようですが、イギリスでは10年以上前から通訳者向けの保険サービスがあります。訴えられた、あるいは自分が訴える、という際に使えるパッケージなのです。世知辛いなあとも思えますが、お互いの身を守るという意味では必要なのでしょうね。日本の保険会社がこうしたサービスを提供するのも時間の問題だと思います。あ、でもその前にAI通訳の完成・現役通訳者淘汰の方が先かも。

で、件の「数字」。対処方法は色々とあります。

(1)必ずメモする
とにかく誤訳があってはいけません。ならばメモあるのみ。ノートに殴り書きをしている間、たとえ自分の同時通訳に「間(ま)」が生じたとしても、数字を落とすぐらいならしっかりと書き、落ち着いて訳すべきでしょう。電子辞書、水、ノートとペンは必須。

(2)ざっくりと訳す
メモを取れればベストですが、CNNニュースのようにマシンガン的速度の同通の場合、書いている間にどんどん話が進んでしまいます。ニュースのレポートは長くても1分強。ヘッドラインなら数秒で次々と話題が移り変わります。となるとメモ取りに励み過ぎて完全に置いてきぼりになる可能性大。ですので私は「どうしても拾わなければいけない数字以外は、ざっくりと訳す」と決めています。「およそ100万ドル」「8兆円以上」という具合。

(3)最後の手段:形容詞
「5億人以下」「10万件ほど」などの数字すら拾えない場合は文脈から判断して形容詞で乗り切ります。「おびただしい数の」「大量の」「たくさんの」などなどです。内心「これって邪道だなあ」と思いはするのですが、細かい数字を拾うことに意識が行ってしまい、「木を見て森を見ず」となったら本末転倒です。

・・・とまあ、このような感じで心拍数を上げながら数字に取り組んでいるのです。

さて、今回の「ひよこ」で数字に関してもう一つお伝えしたいこと。それは「日常生活で数字に振り回されない生き方をしたい」という私の最近の願いです。先週の本稿で「個人ブログをお休みした」と書きましたが、その理由の一つが「数字」でした。自分の中では気にしていないつもりでも、ついつい管理ページを覗いては「今日のブログ訪問者数」や「カテゴリー内ランキング」などの数字に目が行っていたのです。ブログ開設当時は自分の思いを文字にしたいというものだったはず。それがいつの間にか数字を意識し始めていたのです。訪問者数が増えれば嬉しく、ランクが下がればガッカリします。0から9までという「10の記号」に過ぎない「数字」に振り回される自分が嫌になったのでした。

ブログだけではありません。体重然り、食品パッケージ裏面のカロリー然り。スマートフォンに至ってはこちらがお願いしてもいないのに、本日の私のスマホ利用時間が「スクリーンタイム」として表示されます。今、これを書きながら開いたところ「SNS28分、情報と読書12分、その他11分」とあります。過去7日間の棒グラフ、本日の時間帯別棒グラフまで!うーん、大きなお世話じゃ。

数字は大事です。ええ、同通であれ逐次であれ、拾うべき時はきちんと拾わねばなりません。でもたかだか「10の記号」に人生を振り回されたくないなあと思うのですよね。

(2022年2月15日)

【今週の一冊】

「世界の美しい病院―その歴史」石田純郎著、吉備人出版、2021年

日経新聞文化欄に紹介されていたのがきっかけで読んだ本。著者の石田氏は現役の医師で、本書には歴史的な病院建築が紹介されています。

イギリス好きな私にとって、目次から最初に飛んだのが78ページに掲載されているロンドンの「ガイ病院」。英語名はGuy’s Hospitalです。「男」という意味のguyではなく、これはれっきとした人名で創設者はThomas Guyという書籍商。彼は投機ブームで巨万の富を築き、慈善活動として病院を設立したのでした。

私がこの病院で治療を受けたのは、両親とロンドンに暮らしていた小学校時代。地元の歯科では治療が難しいということで紹介されました。外観は18世紀の建物だけあり、壁が薄黒く古めかしい印象でしたが、中はモダンに改装されていたのです。小児用歯科病棟は子どもが怖がらないよう、明るいポスターで彩られていたのを覚えています。すっかり忘れていた幼少期のことを、本書から思い出したのでした。

日本の病院では岡山県の長島愛生園も紹介されています。ハンセン病療養所であるこの病院で、私の敬愛する精神科医・神谷美恵子先生は働いておられました。愛生園の歴史も詳しく出ています。

ちなみにイギリスは病院が閉院した後、建物はそのまま残し内部を改修して豪華マンションにするケースが多く見られます。総合病院だけでなく、精神病棟なども含まれ、ロンドンだけでも結構あります。興味のある方はGoogleで”London former hospital flat”(flatとはイギリス英語でマンション・アパートの意味)と入力してみてくださいね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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