INTERPRETATION

第120回 懐かしきこと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は中学2年の夏まで父の転勤で海外にいました。小2から2年間はオランダ・アムステルダムに、4年生から中2まではイギリスにいたのです。当時は今のようにインターネットなどなく、日本の情報からも隔離されていました。日本人自体が海外で暮らすのも、今ほど一般的ではありませんでした。とにかく現地の学校に溶け込もうと子どもなりに工夫する日々が続きました。

しかし、親の転勤ですので当然日本に帰国する日がやってきます。私の場合もかなり唐突でした。父から「日本に帰ることになった」と唐突に言われ、大いに戸惑ったのを覚えています。やっと英語もわかるようになり友達もできたのに、日本に戻ればまたゼロからやり直しです。しかし一人で残れるような経済力もなければ、寮が付いていた学校でもありません。後ろ髪を引かれるような思いで本帰国したのが中2の夏休みでした。

以前暮らしていた横浜の家へ戻ったものの、私にとっては逆カルチャーショックだらけです。道も家も狭く、皆が同じような格好をして似たような価値観で暮らす、そんな印象を抱きました。編入した近所の中学校では「外国人が転校した!」と大騒ぎになり、休み時間のたびに全校中の生徒たちが私のいるクラスへやってきました。どうにもこうにも馴染めず、私は1週間でその学校を退学したのです。

その後転校した市内の学校は、数少ない帰国子女協力校でした。越境入学です。1時間ほどの通学時間でしたが、幸い良き担任の先生やクラスメートに恵まれ、私は水を得た魚のようになりました。朝礼で話す校長先生の訓話も毎回聴きごたえがあり、今にして思うと立派な校長先生のおかげでその学校の素晴らしい雰囲気があったのだと思います。我が家はのちに隣の市へ転居したためその中学に在籍したのはわずか半年でしたが、今でも当時のことは温かい思い出として心の中に残っています。

その後、高校・大学・社会人となって現在に至るわけですが、つい先日、そんな中学時代のことをじっくりと思い出す機会がありました。きっかけは実家の母が送ってくれた新聞記事でした。そのコラムは「坂」を紹介するシリーズで、私が通っていた中学校近辺の坂が紹介されていたのです。ちょうど東海道五十三次のルート沿いですので、深い歴史があります。

その記事の中に掲載されていたのが、かつて通っていた中学近くの和菓子店でした。中学時代の私は和菓子店と逆の方向へ向かって帰っていましたので、お店の存在は全く知らなかったのですが、記事によれば昭和50年からあるのだそうです。地名を施した和菓子も作っており、懐かしい土地の名前に中学時代の記憶がよみがえりました。

早速ネットで調べて電話で注文したところ、オーナーさんと思しき女性の方がとても喜んでくださり、注文した品物もすぐに届きました。また、遠方から注文した私への感謝の気持ちを始め、心温まるメッセージも添えられていました。きっと地元の人からも愛されているお店なのでしょう。

自分のこれまでの人生がひょんなきっかけとなり、新たな出会いがあるのですね。いつか懐かしの地を訪ねて直にお店のスタッフさんたちにお礼を申し上げたいと思います。

(2013年6月17日)

【今週の一冊】

「ブラック・ジャックになりたい君へ」南淵明宏著、PHP研究所、2005年

著者の南淵医師のお名前を初めて目にしたのは日経新聞。毎週土曜日の別刷り「日経PLUS1」に数週間にわたって南淵先生のコラムが掲載されていたのである。プロフィールを拝見すると、日本有数の心臓外科医とのこと。恥ずかしながら今まで存じ上げなかったのだが、コラムの文章からお人柄がにじみ出ていたので、本書を購入した次第である。

医師と通訳者というのは一見異なる分野だが、「プロ」という意味では共通点がある。本書を読み進めてみると、「医者」という言葉を「通訳者」に置き換えればずいぶんと似ている箇所があった。たとえば次の文章である。

「医者を目指している人は、心のどこかに優越感を持っているのではないか。僕も俗物の一人だから、医学生のときには、ずっとそういう気持ちを持っていた。」

私もそういう時代があった。通訳学校に通っていた頃である。周囲よりは英語を学んできたという自負があったので、正直なところ心の中では優越感を抱いていたのである。

しかし、南淵医師は次のように続ける。

「でも、医者になってみたら、僕の思い描いていたイメージは音を立てて崩れていった。自分の思い上がりも見事にうち砕かれた。『助けてあげる』などという考え方は非常におこがましい考え方だった。

(中略)

医者は、優越感に浸れる仕事ではなく、常に後悔と反省ばかりしている職業だと言える。」

デビュー以降、いや、むしろ通訳者としての稼働年月を重ねれば重ねるほど、自分がいかに勉強不足かを私は感じる。南淵医師の述べるように「後悔と反省」の連続なのだ。

しかし、しょげてばかりもいられない。先生のおっしゃるように「その仕事が好きで、楽しそうに仕事をしている人は輝いて見える」という言葉を信じて、前を見据えて歩み続けるのみなのだ。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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