第525回 仕事への思考パターン
通訳の仕事は「依頼を受けた時点で開始」となります。私たちは「業務当日・拘束時間中のパフォーマンスに対する対価」を支払われているのではありません。仕事を発注されてから当日が終わるまでというトータルに対して料金を頂戴しています。単純に支払金額を見てみると2パターンの事例があると言えるでしょう:
*事例A
業務1週間前に連絡を受けて、以降、「覚醒時間一日当たり7時間X7日=49時間」を予習に充てた場合。「49時間+業務当日の拘束時間に対する支払いXXXXX円」
*事例B
業務1週間前に連絡を受けるも、以降、当日まで一切予習をせず当日を迎えた場合。「予習0時間+業務当日の拘束時間に対する支払いXXXXX円」
(「XXXXX円は事例AおよびBいずれも同額とする」)
この2パターンを比べると、Aはいわば「49時間分の時間外労働をした」と言えます。一方、Bは時間外労働が実質ゼロ円。最小限の労力でXXXXX円を獲得することになります。となればBの方が儲け感満載です。
ただ、実際には事例Bなどありえません。あったとしても、よほど諳んじているぐらい内容に熟知している業務か、最初から投げやりで労働意欲ゼロ・業務放棄といったところでしょう。つまり通訳者というのは誰もが事例Aで仕事をしているのですね。
では現場にいる私たちは内心どう思っているのでしょうか?「当日の費用は当日分だけのはず。だから事前予習時間分を払ってほしい」と言うのでしょうか?少なくとも私はそのような主張が過去にあったという事例を聞いたことはありません。つまり、当日の通訳料金、芸能界風に言えば「ギャラ」は、それまでの予習時間分も含まれてのものなのですね。
そうなると、当日の通訳料金を高額とみるか否かは通訳者個人の価値観次第と言えます。私の場合、「今まで知らなかったことを予習段階で知ることができた。ラッキー!!嬉しいっ!!!」と思いながら勉強をしています。よって、予習は時間外労働どころか、「お勉強をさせていただくチャンスを頂戴した」となるのですね。当日まで勉強をすればするほど、分からなかったことが分かるようになる、しかも業務日には今までお目にかかったことのない方との出会いがある。それがワクワク感へとつながり、ハードな通訳を終えた後も実に達成感が大きいのです。
もちろん、いつもこのような「朗らか・前向き・超ポジティブな心で集中して予習三昧」ではありません。気乗りのしない難易度MAXな業務内容、他業務とのバランスが難しく体調が疲労困憊状態などなど、その都度異なってきます。そういう時は大抵「ああ、なぜこのお仕事を引き受けてしまったのだろう。軽はずみに返事した私が浅はかであった。予習時間がとれないー!!次回からはきちんと冷静に状況を見据えて、お受けするか否かを決めるべき。分かった??自分!!(叱)」と頭の中で思っていたりするのです。
とは言ったものの、やはりこの仕事がとにかく大好きだからここまで来たのですよね。ハードなことがあっても、あるいは、納得いくようなアウトプットが出来ずにトボトボと家路についていたとしても、それでもなお、気持ちを奮い立たせて「次は挽回する、絶対!!」と言い聞かせている自分がいます。
この思考パターンを何度も何度も繰り返しながら今に至っています。
(2022年1月25日)
【今週の一冊】
「放送通訳の現場から―難語はこうして突破する」(袖川裕美著、イカロス出版、2021年)
「同時通訳はやめられない」の著者であり、BBC時代の先輩・袖川裕美さんは、現在愛知県立大学で教鞭をとりつつ同時通訳業に携わっておられます。本書は放送通訳現場で直面した様々な英語フレーズが紹介されています。英語学習書として学べるのはもちろんのこと、最新の時事問題を知る格好の一冊です。
トピックは社会、政治、スポーツやエンタテインメントや大統領演説など、多岐にわたります。たとえば冒頭で紹介されている表現は”Would you talk us through it?”。CNNでも本当によく出てきます。一方、”beyond reasonable doubt”などの法律用語など、裁判や事件ニュースの度に耳にします。「ニュースでよく聞くけれど、瞬間的に訳すのが難しい表現」が本書にはギュッと詰まっているのです。
ちなみに私が一番感銘を受けたのが、「はじめに」に書かれた袖川さんの通訳に対する熱い思いです。本書出版のオファーが来た際、一瞬躊躇したもののお受けしたエピソードが具体的に出ています:
「通訳は『難局を切り抜ける』ことの連続なので、思い切ってこの難しい課題に取り組んでみることにしました。」(p4)
そう、「難局を切り抜ける」ことを通訳者は仕事の都度、おこなっているのですよね。私自身、「ああ!訳語が思いつかないっ!!」と頭の中が真っ白になっても、何とかことばをひねり出さねばならぬ状況などしょっちゅうです。そう考えると、「難局を切り抜ける」というのは、人生そのものにも応用できるのではないか。大変なことがあっても、何とか突破できるのが、実は人間の潜在的なチカラなのではと思ったのです。
通訳者を目指す方はもちろん、昨今の時事問題を詳しく知りたい方にもぜひ読んでいただきたい一冊です。
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