INTERPRETATION

第117回 当たり前の幸せ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

数年前、ジョギングに目覚めた私は「半年後にマラソン出場!」という壮大な(?)目標を掲げました。もちろん初心者ですのでハーフマラソンです。出場する大会を選び、そこから逆算して走り込む練習を行うようになりました。決心したのは1月1日。そう、1年の計は元旦にありということで、とりあえず100日間は毎朝走って鍛えていこうと始めてみたのです。

目標から逆算して日々の課題が定められれば、あとは実践のみ。そういう意味では毎朝黙々と走ることができました。そのオマケとして体重も落ち、マラソンも完走でき、ジョギングは日常生活の一部となったのです。

ところが走ることばかりに集中する一方、体のメンテナンスはおざなりでした。ろくにストレッチやクールダウンもしないまま毎日走っていたのです。その結果、関節痛に見舞われるようになりました。それでも「走ることを止めることへの恐怖」が強く、だましだまし走り続けたのです。

その結果、ある日を境に猛烈な痛みを関節に感じ、歩くのも一苦労となりました。病院での診察結果は「骨に異常もないし、湿布を貼ればいずれ治るでしょう」というもの。おとなしく安静にして湿布も貼りましたが痛みが軽減する気配もありません。別の病院でも同じような答えでした。痛みと共に暮らす日々がその後2年程続いたのです。

最近になって「このままでは本当に中途半端なままになってしまう」と実感し、少し遠い整形外科を訪ねました。そこで初めて具体的な病名がついたのです。「生まれつき骨の形が少し一般的な様子とは異なる」という趣旨の診察結果でした。具体的な病名がついたことでホッとしたのを覚えています。

その日からリハビリ通いが始まりました。幸い良き運動療法士さんに巡り合うことができ、定期的に施術していただいています。また、運動のポイントやジョギングを再開するにあたっての注意点などもうかがうことができました。おかげで数年ぶりにゆるゆるとではありますが、走れるようになっています。

かつては大会やタイムにばかり目が行っていました。けれども今は「のんびりでも良いから季節を感じながら走れる幸せ」を実感しています。同じ朝のジョギングコースも、しばらく走っていない間に新しい建物が建つなど、光景が変わっていました。マラソンの事だけ考えていた頃は周囲の景色を見る余裕がなかったものの、今はじっくりと目の前の風景を味わっています。

私の場合、ジョギングを再開して初めて、「当たり前の幸せ」を味わうようになりました。先の事ばかり考えて「今」をおろそかにしていた自分でしたが、むしろ本当に大切なのは「この瞬間」を慈しむことなのですよね。

体調を崩したことで学んだ大きな教訓でした。

(2013年5月27日)

【今週の一冊】

「生徒に伝えたいピアニストの言葉」檜山乃武・角田珠実編著、ヤマハミュージックメディア、2013年

過日このコラムでピアノ関連の本を紹介したが、今回は同じ出版社から出ている名言集。現役のピアニストを始め、作曲家などの珠玉の言葉が掲載されている。

英語の学習はスポーツや芸術と同じというのが私の考えである。コツコツと練習し、積み重ねていくこと。それが向上につながると思う。効率や時間短縮を求められない分野だと感じるのだ。今の英語学習は、そうした「最小限の努力で最大限の効果」を求めてしまうがゆえに、学習者が苦しんでいるのだと思う。

ピアニストに必要なのは、たゆまぬ努力、すなわち練習である。しかしそのままでは良き演奏者にはなれない。幅広い分野に関心を持ち、心を豊かにして情緒を育むこと。それが演奏に反映される。

通訳者も同じである。語学だけに秀でていても、いつか限界にぶつかってしまう。知識と教養を兼ね備えてこそ、しっかりとした訳ができると思う。

心に響く言葉が数多くあったが、なかでも目を引いたのがヨーゼフ・ホフマンというユダヤ系アメリカ人ピアニストの一節。「あなたの手を洗うように、鍵盤をきれいに拭きなさい」とある。果して私は自分の商売道具である電子辞書やパソコンなどを丁寧に扱っているだろうか?定期的に拭いたり掃除をしたりしていただろうか?

他にも印象的だった箇所を引用したい。

「何を練習したかではなく、いかに練習したかが重要である」
(ヴィルヘルム・バックハウス)

「楽しみを感じながら練習することが一番。退屈な気持ちでやるくらいなら練習しないほうがいい」
(ウラディミル・オフチニコフ)

「プロとして(プロになったつもりで)練習をしなさい」
(ユーリ・スレサレフ)

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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