INTERPRETATION

第112回 しなやかに、真正面から

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

少し前に予備校のコマーシャルで「いつやるか?今でしょ!」というキャッチフレーズで有名なものがありました。いつ勉強をするか迷っているぐらいなら、今取り組むべきというメッセージでした。その後このフレーズは自動車会社の広告でも使われており、「いつ買うか?今でしょ!」と少し変更が加えられています。要は「いつか」「そのうち」ではなく、「今こそがチャンス」というわけなのです。

日々の暮らしを続けていると、私たちは忙しさについ振り回されてしまいますよね。「これ、やらなきゃいけないのはわかっている。でもちょっと面倒だから後にしよう」「あ~、部屋が汚れて来たなあ。掃除しないと。でもこの仕事が終わったらでいいかなあ」という具合です。夕食準備の最中に子どもたちが「ねえねえお母さん、あのね・・・」と語りかけてくると、内心「うーん、食卓に着いてからの方が良いのだけど」と思ってしまう自分がいます。

以前の私は「大目標設定→計画策定→日々実行」というタイプでした。数年後の自分はこうなる、という具合で大きな目的を定め、そこから逆算して自分はいつ何をすべきか考えていたのです。日々の自分の行動をそれに従って実践していくという形を取っていました。日々、やるべきリストがありますので、その通りに行動し、達成されたらチェックボックスにチェックを入れる。そんな具合で暮らしていました。

ところがこの方法に大きな弱点があることが判明したのです。それは、「イレギュラーに弱い」という点でした。

日々の計画はすでにできています。でも毎日暮らしていれば、想定外の事態が発生することはいくらでもあるのですね。たとえば「今日中にこういうことを成し遂げようと思っていた。なのに突発の用事が入ってしまった」という具合です。そうなると、その計画は「睡眠時間を削って達成させる」か「後日に回す」かのどちらかしかありません。

まだ私自身のフットワークが軽かったころは、睡眠時間を削ってでも対応できました。ただ、いつまでも心身ともにサイボーグ的なわけではありません。寝なければ疲労はたまります。くたびれていれば自分が思うように気持ちが付いていけないこともあるのです。そのような状態が続けば続くほど、達成できない項目が増えてしまい、余計に心が置いてきぼりになってしまいます。

大きな目標や夢を否定しているのではありません。むしろ、それが社会や人のお役にたてるものであるならば、抱き続けるべきでしょう。ただ、それにしがみつくあまりに自分が疲労困憊してしまい、目の前の「今」を生きることができなければ本末転倒になってしまうと私は思うのです。

夢ももちろん大事です。でもそのための「日々のチェックリスト」を追求するあまり、今目の前の光景を、出来事を、否定してはいないでしょうか。昔読んだ絵本の中に「ハイ、次、ハイ、次、ハイ、ハイ、ハイ」というフレーズがあったのですが、「やることリスト」だけに頼りすぎてしまうと、自分の人生が単なる「やることリスト達成マシーン」になってしまいます。

大切なのは今という瞬間を目いっぱい受け入れること。そのさなかをしっかりと生きることなのでしょうね。「こうせねば」と拘泥してしまうと、体がカチカチに凝るように、心も凝り固まってしまうように感じます。しなやかに、真正面から自分の人生を受け入れていきたいと思います。新年度が始まった今、そんなことを感じています。

(2013年4月8日)

【今週の一冊】

「自分を愛する力」乙武洋匡著、講談社現代新書、2013年

春休み中に映画「だいじょうぶ、3組」を観た。主演は「五体不満足」の著者の乙武洋匡さん。乙武さん自身が経験した3年間の小学校教員生活を土台にしたストーリーである。乙武さんのことは20年ほど前、ある専門誌でインタビューを読んだことがあるが、実際にご本人の動画を見たのは初めてであった。

映画の中の乙武さんはいつもパワフルで元気。そういえば「五体不満足」を読んだときの印象も、底抜けに前向きで明るかった。あのパワーの源はどこから来るのだろう。そんな思いを抱いていたときに出会ったのが、今回ご紹介する新刊「自分を愛する力」である。

本書には、どのような形で自分を肯定する力が出てくるのか、乙武さんご自身の体験が綴られている。その根底にあるのは、やはりご両親からの大きな愛情だったのである。幼いころ、そして育つ過程においてご両親に愛され、それが自分の土台となって、周囲とのかかわり方に反映される。だからまずは自分で自分を受け入れ、肯定し、愛し、しっかりと根を生やして自分を確立していったのであろう。

幼いころの思い出話や教員時代のエピソードなど、本書は「今」に至るまでの乙武さんの自伝になっている。非常にユーモラスな個所もあり、つい爆笑してしまう。明るく前向きに生きていきたいと人は誰でも思っているはず。ならばぜひ本書をひも解いてみてほしい。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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