INTERPRETATION

第502回 取り組むための儀式

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳業というのは、事前にテーマや業務内容を教えていただき、当日に向けて準備をします。この準備をどれだけきちんとできるかが、当日のパフォーマンスに影響するのですよね。アスリートや音楽家などと同じだと私は思っています。

とは言え、私の場合、「予習せねば」とわかっていつつもなかなか重い腰が上がらずということがあります。しかも、それが少なくないのです。頭の中では焦りつつも、なぜか気乗りしない、ということがあるのです。事前に渡された資料が膨大な量であったり、難解なトピックであったりすれば尚更です。「ああ、早く着手しなくちゃ」とブツブツ独り言を言いつつ、手付かずの時間ばかりが過ぎていきます。

特に、他にやらなくてはいけないこと、たとえばそれが家事であったり、あるいは別の考え事などが頭の中を占めていたりすると、余計、開始が遅れてしまいます。大学院に留学していたころ、論文執筆が進まず、家の片付けばかりしていましたが、クラスメートも皆、異口同音に同じことを言っていました。要は現実逃避です。

しかし、いつまでも目の前のことから逃げていてはまったく進まないわけですし、それどころか当日、多大なる迷惑をかけてしまいます。フリーで働いていますので、失敗したら二度と仕事が来ないかもという恐怖は常にあります。このプレッシャーがとても怖いのです。

ではどうするか?

これはもう、とにもかくにも「着手する」しかありません。四の五の言わず、手を付けるしか解決策はないのです。

そのために、何かしら「儀式」があると良いと思います。「コーヒーを淹れたら始める」「机の上を拭いたらスタート」という具合です。私の場合、CNNの準備室では「出社→デスク周りの消毒→通訳ブース内の消毒(いずれもコロナ対策)」を終えたら、必ず手がけていることがあります。それは「コピー用紙の補充」なのですね。

実はこの作業がとにかく私は好きなのです。補充すれば仕事モードに入れる、というのが一番大きいのですが、それより何より、トレイを開けてあとわずかしかないと、

「よしよし、今日もたくさん補充できる!」と獲物発見(?)のごとく嬉しくなります。さらに、コピー用紙の束が無くなり、新たな箱を開封するときなど、テープカッティング・セレモニーのような気分(ってどういう気分!?)で、箱をびりびりと開けるのが楽しいのですね。

他の通訳者の方から、「柴原さん、いつもスミマセン」と言われることもあるのですが、私としてはむしろ生きがい(大げさ!)のようなものなので、この作業のおかげで仕事モードに入れるのです。

一方、在宅の場合は、「複数ページに渡る資料を糊付けする」のが儀式となっています。たとえば縦A4の資料が複数ページに渡る場合、2枚を糊付けして、A3サイズにするのですね。そうすれば見開きで見やすくなります。アラビックヤマト糊片手にこれを黙々とやっていると、少しずつお仕事モードに入れます。

というわけで、仕事開始儀式というのは大切だと思います。みなさんもきっかけが無いと着手できない場合は、何かしら儀式のパワーを使ってみて下さいね。ちなみにコピー用紙補充やアラビックヤマト方式に到達したのは、長年にわたる試行錯誤を経て、ごく最近のことです。まだまだ試し続けたいと思っています。

(2021年8月3日)

【今週の一冊】

「仕事も人間関係もうまくいく 放っておく力:もっと『ドライ』でいい、99の理由」枡野俊明著、三笠書房、2021年

庭園デザイナーでもあられる住職の枡野俊明氏。これまで本を多く出していらっしゃいます。生き方指南や日々の暮らし方についてなど、私も何冊か読んだことがあり、その都度、心が励まされました。今回ご紹介するのは、「放っておく力」の文字がとりわけ大きく描かれている文庫本です。

私の場合、生育ゆえなのか、それとも通訳という「徹底的に予習する仕事」によるのかは不明ですが、「ほどほどのところで放っておく」ことが昔から不得手です。どうしても完璧を求めてしまうのですね。調子の良いときはそれで生産性が高まるのですが、一旦イレギュラーに見舞われるとメンタルへのダメージが少なくありません。よって最近は、いかに自分の心身と目の前のことをバランスよくしていくかが私の課題です。

本書では心に響くことばが沢山ありました。たとえば「自分の思いどおりになるのは自分だけ」(p21)、「マイナス感情の発信源に近づかない」(p57)、「人生、たいがいのことは『笑ってすます』ことができる」(p91) など、日々の生活で少し心がけるだけでも、前向きになれそうですよね。

中でも「心ない言葉を無責任にいいっ放しにするような人の発言には、そもそも意味なんてない」ことから、「反応するだけ無駄」(p101) という一文には思わずうなってしまいました。人の悩みの多くが、他者との関わりから生じるものであり、その理由となっているのが、相手の言動がほとんどだからです。大事なのは、他者のことばをうまくこちらが放っておけるようになれば、気にならなくなってくるということなのでしょう。

新型コロナウイルスの収束がなかなか見えず、誰もが大変な状況に見舞われています。だからこそ、放っておいて良いことは潔く、そして勇気を持って放っておくことが大事だと本書から学びました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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