第500回 仕事は楽?苦しい?
「通訳者のひよこたちへ」の連載が今回で500回目を迎えました。思い起こせば、テンナイン・コミュニケーションの工藤社長よりお声がけをいただき、「通訳者のたまごたちへ」というコラムを書く機会を頂戴したのが出発点でした。文字を紡ぐことが大好きな私にとり、通訳の話にとどまらず、様々な思いを執筆させていただくことは私の生きがいとなりました。「通訳者のひよこたちへ」になってからも、ハイキャリアを通じて旧友と再会できたり、教え子から反響をいただけたりと、文章を介して私の世界も広がっています。これもひとえに読み続けて下さる読者のみなさまのおかげです。心より御礼申し上げるとともに、引き続きよろしくお願い申し上げます。
さて、今回は「仕事は楽?苦しい?」というタイトルにしてみました。数年前に「仕事は楽しいかね?」というデイル・ドーデン氏の本が大ベストセラーになったことがあります。一方、書店を覗けば「効率的な仕事の進め方」「自分を生かせる仕事の見つけ方」という内容の指南本もたくさん並んでいます。人生は一度きり。その一回限りの自分の生命において覚醒している間、すなわち「起きてから寝るまでの間の大半を費やす仕事」とどう向き合うかは誰にとっても大きな課題でしょう。
私は大学卒業後、民間企業に勤めましたが、どうしてもやりたい仕事の部署への異動がタイミング的にかなわず、あっさりと転職しました。今振り返ってみると、もう少し粘ればその業務にありつけたのかもしれません。でも若気の至りなのでしょう、あまり深く考えず、留学することを自分の正解と位置づけ、それに近い業務の事務所へと移ったのでした。
留学から帰国当時は研究者になることを漠然と思い描いていましたが、こちらもチャンスはゼロ。たまたま帰国のご挨拶に伺った恩師から通訳の仕事を紹介されたのがこの業界に入るきっかけとなりました。その後、憧れのロンドンで正社員として放送通訳に従事する機会に恵まれ、帰国してからは再びフリーの通訳者として現在に至っています。
私にとって「通訳」という仕事は「生きがい」です。知らなかったことに巡り合える喜びは何物にも代えられません。好奇心を無限大に追求できる、稀有な職業です。もちろん、多大なる準備が求められ、本番では心臓が止まりそうなほど緊張し(ちなみに私は今でもものすごく心拍数が上がります)、発声で喉と首と肩・背中は凝り固まり、業務終了後は疲労困憊で呆然としてしまうぐらいエネルギーを要する仕事です。おそらくスポーツ選手や演奏家など、本番で結果を求められる職種と同じであると私はとらえています。
よって、私にとって通訳業、あるいは同じく「多大なる準備と本番でのチカラ」を求められる講師という仕事は、決して「楽」ではありません。むしろ「苦しい」部類に相当します。しかも仕事「だけ」に専念できる環境に私自身、置かれてはおらず、家に帰れば家事や家族のことがあります。自宅は都内から1時間かかる場所にありますので、通勤だけでも体力を消耗します。
一方、自分の周りを見渡せば、「あの人は親元にいるから、家事を全部やってもらえて良いな。その分、勉強に専念できてうらやましい」「あの人は23区内に住んでいるから、疲労感も私より少ないのでは」「子育ての問題もなさそうだし、円満なのだろうな」「私みたいに関節痛もなく体力いっぱいで良いな」などなどなど、自分と異なる環境の人は限りなくいます。そうした方々と自分を比べれば、とてつもなく自分がみじめになってしまいます。せっかく素晴らしい案件を頂戴し、良き仕事仲間や教え子、職場環境や労働時間条件などに恵まれていたとて、いったんネガティブなことに目が行けば、気持ちは沈んでしまうことでしょう。
私が学生時代から敬愛している精神科医の故・神谷美恵子先生は、著作の中で「苦しんで苦しんで仕事をせねばならない」と綴っておられます。先生がご存命のころはまだ女性が専業主婦になるという時代でしたが、先生はハンセン病患者のために生きると決意され、子育てをしながら大変な中、仕事を続けておられました。
私は先生のこの文章を、悲痛な心の叫びととらえる一方、「仕事は苦しくても良いのだ」と解釈しています。楽な人生、楽しい仕事「だけ」に恵まれていれば、確かに心は軽やかになるかもしれません。でも、自分の運命における「突如として現れる辛さ」は人生につきものです。「見なかったことにする」「切り捨てる」という選択肢もあるかもしれませんが、それは私自身の価値観からかけ離れています。ゆえに「苦しくても構わない。置かれた境遇で全力を尽くす」と腹をくくろうと、最近の私は改めて自分に言い聞かせるようになりました。これからも前向きにこの仕事に出来る限り長く携わっていきたいと思っています。
今回は長文となりました。お読みくださりありがとうございます。これからも本コラムをどうぞよろしくお願い申し上げます。
(2021年7月20日)
【今週の一冊】
「電線絵画」練馬区立美術館(編集)、求龍堂、2021年
数か月前に練馬区立美術館で開催されていた「電線絵画展」。着眼点がユニークであることに惹かれて観に行きました。そこには19世紀から現在に至るまでの「電線を描かれた絵」がたくさん展示されていました。
初めて電信が東京と横浜を結んだのは明治2年・1869年です。その2年後には東京から長崎までの建設が始まっています。それほど長きにわたる歴史を有する電線ですが、絵画や写真などでは風景の一部となり、あまり注目されていなかったように私は思います。
本書の中で惹かれたのは小林清親という浅草出身の画家です。練馬の展示で初めてその名を目にしたのですが、河鍋暁斎と交流もあり、横浜在住のイギリス人ジャーナリストのワーグマンから洋画を学んだとあります。小林の電線が本書には多く掲載されています。
巻末には、電線を描いた各画家のプロフィールを始め、電信柱の仕組み、電信の歴史なども盛り込まれており、電線を知る上での学術書とも言えます。これを読むと、近所の電線にも注目したくなります。
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