INTERPRETATION

第497回 大切な人の思い出

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳業務というのは一期一会の仕事でもあります。もちろん、契約社員として一定期間、会社に所属して社内通訳をするケースもあれば、特定のプロジェクトの一員として数週間あるいは数か月、通訳業務に携わることもあります。しかし、ほとんどの場合、長くても数日間のセミナーであったり、一日限りの商談通訳や単発講演会です。「今日の業務が終われば、この方とはもう二度と会えない」というのが、この仕事の特徴でもあるのですよね。よって、一つ一つの仕事を大切に、そして素晴らしき方との出会いに感謝をしたいという思いで私はこの業界の中で生きてきたように思います。

さて、通訳者になる前、私は組織にフルタイムの職員として働いていた経験があります。その時、とある方と仕事でご一緒させていただくことがありました。非常に博識な方であられた一方、決してそれを前面に押し出すことはなく、むしろ相手の話によく耳を傾けておられる方でした。

仕事の合間の雑談で色々とお話を伺う機会があったのですが、古典から聖書から万葉集から現代の文学、それに加えて多様な文化や民族、言語にも関心がおありであることがわかりました。お話を伺うたびに、世の中にはまだまだ自分が知らないことが山のようにあると気づかされました。

その後、私は海外の大学院に留学したのですが、季節の手紙などのやりとりで、私を励まし、気を配ってくださっていることが文面からにじみ出ていました。今にして思うと、私にとっては人生におけるメンターでした。大変な留学生活でしたが、何とか切り抜けられたのも、広い視点から応援をして下さる方がこうしておられたからだと思っています。

亡くなられて長い年月が経ちますが、今でも私は迷いに遭遇すると、その方を思い出し、自分はどのような行動を取るべきかに思いを馳せます。以前、このコラムでも書きましたが、私は実両親、とりわけ母親が人格障害という病を持っているため、私が悩みを吐露しても逆に糾弾されるという人生を歩んできました。

よって、辛い時は亡きメンターを思い出し、メンターであればどのような助言を私にして下さるかと考えます。

生きていれば素晴らしい人との出会いは必ずあります。たとえ血のつながった家族に恵まれなくても、身近に自分のことを大切に思ってくれる人はいるのです。故人であれ、今、お元気な方であれ、そうした方々を思い起こし、自分を元気づけるという人生を私はめざしたいと思っています。

(2021年6月22日)

今週の一冊

“Victorian Medicine and Popular Culture” Edited by Louise Penner and Tabitha Sparks, Pickering & Chatto, 2015

イギリスのビクトリア時代(1837-1901)は、日本の明治時代と重なります。当時のイギリスは世界経済においてリーダー的存在であり、社会や文化が大いに発展した時期でもありました。本書は当時のイギリスにおけるポピュラー文化面で、医学がどのように位置づけられていたかをまとめた学術論文集です。

絵や写真がほとんどないおよそ200ページからなる本書は複数の研究者が寄稿しています。かつてイギリスの大学院に留学していたころ、私はこうした論文集を最初から最後まで読破せねばという強迫観念に駆られていました。けれども大事なのは自分の修士論文テーマに沿った箇所だけ読めばそれで充分なのですよね。よって、今回私は興味のある章だけを読むにとどめました。

注目したのは、マサチューセッツ大学のLouise Penner博士が記したチャールズ・ディケンズに関する論文です。「クリスマス・キャロル」や「オリバー・ツイスト」などの名作で知られるディケンズ(1812-70)は、生前、イギリスの医療制度、とりわけ貧困について頻繁に問題提起をしていました。作品内でもこうしたテーマを取り上げていたのです。

アメリカで充実した医療制度を視察したディケンズは、イギリスの医療制度がいかに改善を要するかを訴え続けたそうです。小児病院の充実を唱え、孤児たちのためにも奔走しました。衛生環境の改善についてはナイチンゲールとともに啓蒙活動を続けたのです。

ディケンズが関わったGreat Ormond Street HospitalやThe Foundling Hospitalは、かつて私が滞在した学生寮のすぐ近くにありました。今のイギリス医療が充実しているのも、こうしたディケンズたちの努力があったからであることに改めて気づかされました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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