INTERPRETATION

第494回 モチベーションのこと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

コロナで何かと制限がかかる日々が続きます。私の場合、コンサートや美術展、映画などに出かけることは自分にとって心のよりどころであり、欠かせないものでした。その会場や劇場にいる間というのは、その世界にどっぷりと浸かることができます。現実とは異なるワールドに身を置き、しばしリアルな社会のことを忘れていられる時間が、私に新たな気づきやエネルギーを与えてくれるのですね。

おそらくこのようなマインドになったのは、留学がきっかけだと思います。ハードな課題に押しつぶされそうになり、さりとて退路を断って貯金を全てつぎ込んで渡英したのです。おめおめと投げ出すわけにはいきませんでした。エンドレスに課される課題図書やエッセイ、授業の出席などは、「とにかく立ち向かうしかない状況」であったのです。でも、心の中では「やめたい、逃げ出したい」という思いでいっぱいであり、「何でこんなに大変な人生を選んだろう、私は?」と自分の過去の決断を恨むなど、心は不安と後悔でいっぱいだったのですね。

そのようなときに私を救ってくれたのが、クラシックのコンサートや美術展でした。幸い、学生料金で一流のコンサートを鑑賞することができ、もともと無料で開放されているロンドンのミュージアムは、一日ではとても見切れないほどの素晴らしい展示物ばかりが収蔵されていました。そこに足を運ぶことで、現実を忘れ、救われたのだと思います。

ステイホームということばが日常語として市民権を得て、早や1年以上が経とうとしています。快適な自宅にするための工夫や、おいしいものへの投資、楽しく家の中で動画を見るためのサイトなど、様々な商品やサービスが展開されています。苦しい中でも、こうした取り組みが提供されることで、私達はこのコロナの最中でも、何とか前を向いて日々を歩めているのだと思います。

でも、だからとて「新しい生活様式」に完全にスイッチを切り替えられたのかと問われれば、私の場合、答えは「否」です。確かに、様々な商品やサービスで助かってはいます。でも、対面やリアルなものがそうした取り組みで相殺されるわけではないのですね。

日本を代表する工業デザイナーの奥山清行さんは、コロナ以前のころ、世界各地への出張が多く、そうした現地で名車のデザインを議論し、考案されてきました。奥山氏はこう述べています:

「夜中に飛行機に乗ってロスに着き、眠い目をこすりながら友人と会い、色々な角度から問題の解決策を議論することが世界基準でものを考える良い刺激になっていた。コロナ禍でそれがなくなり、モチベーションが相当落ちている。」

数々の名車、新幹線から家具に至るまで人々の心に残るデザインを提供し、とても前向きに見受けられる奥山氏でさえ、モチベーションへの打撃をコロナで感じたというのです。

奥山氏は、かつてGMに勤務しており、安定した地位を目指す人生もあったものの、あえて荒野に身を置くという選択をしています。「お金では買えない貴重な体験も積めた。それが今の自分の強みになっています」とも述べています。

「希望は『ない』と諦めた時点でなくなるし、『ある』と信じたら絶対にある。要は自分の考え方、感じ方ですべてが決まる。」

このようにインタビューで答えています。

私自身、モチベーションが大幅にダウンし、それは自分の意志が強固でないからと思い悩んでいました。でも、誰もが今は同じように大変な現実に直面しているのですよね。

モチベーションがダウンしたのは自分「だけ」のせいではない。

そう思えただけでも、前向きな気持ちになれました。

(「『未知の自分』探そう 工業デザイナー奥山清行氏が説く留学のススメ」日本経済新聞2021年5月17日月曜日朝刊)

(2021年6月1日)

【今週の一冊】

「世界を変えた本」マイケル・コリンズ神父他著、樺山紘一監修、藤村奈緒美訳、エクスナレッジ、2018年

とてつもなく大きい本ですが、すべてカラーで歴史的名著を紹介しています。古代エジプトの「死者の書」から始まり、1964年の「毛沢東語録」に至るまで、世界各地の本ばかりが並びます。「不思議の国のアリス」の草稿や「源氏物語」、ダーウィンの手書きの原稿など、高校時代の世界史の授業で一度は聞いたことがある書名が250ページ近くに渡って出ています。

今のようにデジタル技術がない中、すべて手作業で美しい装丁を施したいにしえの人たちの努力はいかばかりかと思いますし、その一方で、こうした書籍は世界に一つしかない、というケースもあったことでしょう。かつて洋学が日本に入り始めたころは英和辞典もなく、それこそ奪い合いになるぐらい、誰もが勉強に飢えていたということを思い起こさせます。

「源氏物語」は絵と文字が書かれています。しかし、私は草書体がまったく読めないため、何が書かれているかはさっぱりわかりません。かつてオックスフォード大学の日本語専攻学部生を取材した際、スラスラと草書の日本語古典を読んでいた光景を見たことがあります。そのことを思い出しました。

最後に印象的だったことばをご紹介します:

「学校に行かずにすんで本当によかったと思います。行かされていたら、独創性がいくらか失われてしまったでしょう」(ビアトリクス・ポター。pp219)

あのピーター・ラビットが生まれたのは、そのような著者の生い立ちがあったからなのですね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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