第493回 尾高忠明さんのことば
ロンドンに留学していたころ。とにかく課題の量が膨大で、半ばうつ状態に陥っていました。履修していた科目自体はわずか3教科だったのですが、毎週の授業の前にはとにかく大量の文献を読み込んだうえで臨まなければなりません。初回の授業時に書籍リストを渡されたのですが、のんびりとランチを食べてから図書館へ探しにいったところ、あっという間に貸し出しされていました。仕方なく貯金を切り崩して購入せざるを得なかったのですよね。
そうした勉強三昧の日々が続くこと9か月。ようやく修士試験と論文提出を済ませたのが6月でした。帰国まで数週間ありましたので、そこからはひたすら好きなことをして日々を過ごしました。
中でも私にとっての留学中の支えとなっていたのが、コンサートや美術館巡りです。とりわけクラシックの演奏会によって私は大いに現実逃避もできて(!)、旋律に励まされ、何とか勉強に立ち向かえたのですね。
夏のイギリスは日照時間も長くなります。ツーリストも増えてロンドンもにぎわってきます。そうした中、オックスフォードストリートから少し北に入った小道沿いにあるCDショップをたまたま訪ねました。
店内に入ると、美しいメロディが流れています。初めて聴く曲で、大いに惹きつけられました。レジの棚まで行くと、かかっているCDがディスプレイされていました。それはBBCウェールズ交響楽団の演奏するラフマニノフの交響曲第2番。指揮者名にTadaaki Otakaとありました。
それまで私はOtakaさんとおっしゃる指揮者のことは知りませんでした。気になったので調べたところ、日本を代表する尾高忠明さんだったのですね。実業家・渋沢栄一の曾孫であられます。
さて、そのマエストロ・尾高についての文章を5月5日の日経新聞で見かけました。大阪交響楽団の正指揮者・太田弦さんによるものです。「交遊抄」というコラムでした。
太田さんは学生の頃、尾高さんを師と仰ぎ、学び続けてきたそうです。自らを「頭でっかちで自分に自信がないタイプ。勉強して理屈で正しいと思える指揮をしようとする」と分析しています。そのような太田さんに対して尾高氏は次のように述べたそうです:
「正しいのもいいけれど、自分が一番すてきだと思うようにやってみることも大事だよ」
「そのためには自分を愛することから始めなさい」
深い言葉ですよね。
毎日の暮らしを続けている際、ややもすると「正論」ばかりがまかり通る事態に直面することもあります。「それはそうだけど、でも・・・」と受け手は思ってしまうのですよね。確かに正論は理屈的には「正しく、絶対的な正解」となり得るでしょう。でもそればかりを振りかざしてしまえば、世の中はギスギスしてしまうと思うのですね。
私は先の尾高さんの言葉から、
「正論を振りかざす=自分への愛情欠如」
という図式に至りました。自分を愛していれば、寛容さも出てくるはずです。でも、心の中で自分の本音と向き合えず、自分の弱みを直視できないと、それを覆い隠したいがゆえに正論に走ってしまうように思えるのです。
太田さんにとって、指揮者の高関健さんも「もうひとりの恩人」なのだそうです。私はここ数年の間にお二人の指揮で音楽を味わう機会がありましたが、尾高さんも高関さんも、聴衆を心から大切にし、美しい指揮を見せてくださいます。
今回の太田さんの文章を読み、改めて考えさせられました。
(2021年5月25日)
【今週の一冊】
「電柱マニア」オーム社編、須賀亮行著、オーム社、2020年
数か月前のこと。練馬の美術館で行われている絵画展へ出かけました。テーマは絵画の中に描かれている電柱です。最近は電信柱の地中化が進んでいますが、実は電柱というのは、日本の電力の歴史において大きな役割を果たしてきているのですよね。
本書は電柱の仕組み、パーツ別の名称紹介、珍しい電柱などがカラー写真で詳しく説明されています。中でも興味深かったのは、電柱に付いているプレートの見方です。電力会社のロゴマーク、一本一本に割り振られている番号、電柱のある地名や建柱年、電柱の高さなど、この説明を読めばわかるようになります。
以前の私は、日本の街の景観を損ねるものの筆頭として電柱を挙げていました。でも、こうして鑑賞方法がわかると、街に出かけて電柱ウォッチングをしたくなります。スッキリした街並みももちろん美しいのですが、著者の須賀さんが文章で表す電柱愛から、私も電柱に魅了されつつあります。
本書を読んだ後、窓の外を見てみました。近所の電柱や遠くに見える鉄柱が目に入ってきます。電柱のお陰で電話や電気が使えるのですよね。もっと注目していくつもりです。
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