INTERPRETATION

第489回 正解の呪縛から逃れる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の仕事を始めてずいぶん年月が経ちました。一つの仕事を終えるたびに、「ああ、まだまだこの世の中には知らないことがたくさんあるなあ」と感じます。知らないことに愕然とするのではなく、むしろ「生きている間に知るきっかけを得た」という感覚になります。それがこの仕事の醍醐味であり、これほど長く続けてこられた理由なのだと思います。

デビュー当初は自分なりに「万全の準備をして」現場入りしていました。でも、思いがけないフレーズや単語に戸惑い、訳出できず、敗北感でいっぱいになったことも一度や二度ではありません。そこから奮起して、次の業務ではさらに勉強を積み重ねて臨むのですが、やはり完璧にできたという状態に達することは無いのですね。つまり、通訳の仕事というのは「終わりがない」の一言でまとめられるのでしょう。

一方、通訳者を目指す方や英語学習に励む方々からよく受ける質問があります。それは「単語の覚え方」や「文法の克服法」「スピーキング力アップのノウハウ」という具合です。「現役で通訳の仕事をしている人に聞けば、正しい方法が得られるのでは」という思いがあるのだと思います。

でも正直なところ、「これさえやれば完璧な通訳者になれる!」という方法があるぐらいなら、私がぜひとも教えて欲しいとさえ思ってしまいます。そう、要は世の中には「正解」など無い、ということなのですよね。言い換えれば、どの方法にも長所短所があり、個人の好みに合う合わないとなるわけです。

ここまでデジタル化した今の時代でもなお私は「紙新聞」「紙辞書」「紙ノート」を愛用しています。地球環境保護の観点からペーパーレスが推奨され、デジタルの方がいつでもどこでも見ることができ、重量も軽いにも関わらず、相変わらず原始的なアイテムを使っています。それには理由があるのですね。

紙新聞も紙辞書も、見開きで目に入る情報量は多く、すぐに書き込んだり切り抜いたり(辞書はさすがに破りませんが!)できます。紙ノートであれば、一冊を終えるごとに「自分はノートを仕上げるだけ勉強できた」という達成感を抱けます。そうしたことが私にとっては大いなるモチベーションとなるのです。デジタルでも残量や達成度合いなどをそれこそカラフルに表示はできるでしょう。でも私の場合、凝ったものに特に魅了されるわけでもなく、オーソドックスな方法で十分なのです。

正しい方法を探しあぐねて足踏みばかりになってしまい、ネットで「単語暗記法」「リスニングメソッド」などのサイトを読んでいると、一瞬「勉強した気分」になりますが、実はあまり前に進めていないと言えます。ノウハウで迷うぐらいならば、「とりあえずノートに未知の単語を書いてみる」「音読してみる」「英語音声を聞いてみる」で良いと思うのですね。「それまでやっていなかったこと」を「一つでもやり遂げたならそれで良し」なのです。

正解の呪縛というのは、案外厄介だと思います。足踏みするより一歩前へ、です。

(2021年4月27日)

【今週の一冊】

「とにかく目立ちたがる人たち」矢幡洋著、平凡社新書、2006年

かつての日本人と言えば、「人様より目立ってはいけない」ということが美徳とされてきました。もちろん、今の時代でも同調圧力により、皆と同じにせねばという意識はあるでしょう。しかしその一方で、「目立ちたい」と思い、それが言動に表れている人たちがいるのも事実です。

本書は、なぜ目立とうとする人がいるのかを臨床心理士の著者が分析した一冊です。「目立つ」にも色々とありますが、中でも「話を大げさにして注目してもらいたい」「本心を隠してお世辞を言う」などについての考察が印象的でした。矢幡氏いわく、そのような人の多くは、幼少期に大勢の人から構ってもらったとのこと。よって、大人になってからも常に強い刺激を欲するようになってしまったのだそうです。

たとえば相手が少しだけ気分を害したことについて「相手が激怒した」と述べたり、話を誇張させて面白おかしく表現したりというのは、「ただのお調子者」であり、「無責任な扇動家」と著者は記しています。そう考えると、テレビ番組表にあるワイドショーの予告も「俳優の○○が号泣」などとありますよね。実際には涙をポロリと流したにも関わらず、という具合です。

矢幡氏によれば、目立ちたがる人は「本当の自分」というものを持たず、自己の内面の矛盾を見ようとしないのだそうです。そこから派生して他者への「共感性の欠如」にもなってしまうと警鐘を鳴らしています。本書には実例も沢山出ており、実に読みごたえがありました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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