INTERPRETATION

第483回 「きこえよき言葉」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

東日本大震災から間もなく10年が経とうとしています。人は大きな災害や事件などを経験した際、そのときに自分がどこで何をしていたか、如実に覚えているものです。私にとっては阪神淡路大震災や9.11事件などがそれにあたります。

10年前の3月11日。私は当時原宿にあったCNNのスタジオで放送通訳をしていました。その数日前から大きな揺れを何回か経験しました。「もしかしたら大きな地震が来るかもしれないね」と家族で話し合ったことを覚えています。

そして当日の14時46分。私はその日、後半30分の同時通訳を担当しており、同通ブースの中にいました。激しい揺れがしばらく続いていましたが、なぜかそのとき私はさほど恐怖感を抱きませんでした。むしろ「揺れにおびえたからと言って、同時通訳を止めてはならない」という気持ちの方が強くありました。目の前のテレビ画面やPCが倒れてくるのを両手で押さえつつも、ひたすら通訳を続けていたのです。

今にして思えば、同通ブースの重たい防音扉を真っ先に開けるべきだったのでしょう。でもそこまで考えが回りませんでした。スタッフさんが開けて下さったのは本当に幸いだったと思います。万が一歪んでしまったら、外に出られなくなるからです。

その日は帰宅することができず、局の楽屋で夜を明かしました。ありがたいことに家族の無事がわかったため、あとは落ち着いてから私が自力で帰宅すれば良いだけとなりました。

あれから長い月日が流れました。あの震災のことを頻繁に話題にすることも少なくなったように思います。けれどもあの時、本当につらい経験をされ、今なお大変な状況に置かれておられる方は現在もいらっしゃるのですよね。関東圏で幸いなことに大きなダメージを受けずにいた私のような人間がいる一方で、震災はまだ終わっていない立場の方もおられるのです。

私が敬愛する故・神谷美恵子先生は、生涯にわたってハンセン病患者の精神科医を務めていました。先生は患者に思いを寄せる名詩「癩者に」を残しています。その中に「なぜ私たちでなくてあなたが?あなたは代わって下さったのだ」という文章があります。私はこの詩に大いに感動し、考えさせられ、この文に出合って以来、自分は仕事を通じて何ができるか、どう生きるべきかを考え続けてきました。

続きを引用します。

「ゆるして下さい、癩の人よ
浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよき言葉あやつる私たちを。」

私が衝撃を受けたのは、「きこえよき言葉あやつる私たちを」の部分でした。

人は自分を良く見せるために、あるいは嫌われたくないがゆえに、本心から離れた言葉を口にしてしまうことがあります。至極もっともなことを述べたり、本音は違うにも関わらず相手が喜びそうなことばを投げかけてしまったりということがあります。私自身、自戒の念を込めてこれを書いているほどです。

震災で被害に遭った方、あるいは今、人生において非常に苦しい思いをしておられる方に対して、「きこえよき言葉」を述べることは簡単です。でも、それが本当に相手にとっての思いやりや寄り添いになっているかは、よくよく考えねばならないと私は思っています。

ことばを生業とする私自身、震災から10年を機に改めて考えさせられています。

(2021年3月9日)

【今週の一冊】

「おーちゃんの おーけすとら」ディック・ブルーナ(著、イラスト)、まつおかきょうこ訳、福音館書店、1985年

「ミッフィーちゃん」で有名なブルーナさんは誰もが知るオランダの作家ですよね。私は幼少期にオランダに暮らしたことがあり、当時からブルーナさんの大ファンでした。私の世代はおそらく「ミッフィーちゃん」よりも「うさこちゃん」の方が馴染みがあると思います。日本で1964年に石井桃子さんが翻訳した際に「うさこちゃん」と名付けられ、その後、1979年に絵本が講談社から発行されて以降、「ミッフィーちゃん」となったそうです。

今回ご紹介するのはオーケストラをテーマにした一冊で、主人公は「おーちゃん」です。様々な楽器が出ており、文章もわかりやすく、赤ちゃんでも楽しめると思います。私自身、音楽が大好きなのでお気に入りの作品です。

なお、本書には「特別版」があります。オランダのロイヤルコンセルトヘボウオーケストラが2015年に出したものです。数年前、コンセルトヘボウに出かけた際、買い求めました。タイトルは「おーちゃんの おーけすとら」ではなく「わたしたちの おーけすとら」です。オリジナル版の最後は「そして、いちばんおしまいが しきしゃのおーちゃん、 つまり、このぼくです」とあるのですが、特別版は「おーちゃん」ではなく「まりすさん」となっているのですね。そう、私が敬愛してやまない指揮者のマリス・ヤンソンス氏です。氏は長年コンセルトヘボウでタクトを振り、多くの人々に愛されましたが、2年前に76歳で亡くなられました。そのヤンソンス氏を描いた貴重な一冊となっています。興味がおありの方は、ネットで検索してみてくださいね。特別版はまだ販売されていると思います。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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