INTERPRETATION

第100回 ホントは100点取れたのに

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

最近ビジネス関連の本をよく読むのですが、どの書籍にも共通して書かれていることがあります。それは「謙虚さ」です。伸びていく人ほど自らを客観的に、そして時に厳しくとらえ、謙虚に学び続けているというのです。

大学卒業後、紆余曲折を経てフリーランス通訳者に私はなりましたが、これまで出会ってきた中で今でも心に残る方々が何名かいらっしゃいます。財界だけでなく、ファッションやアートなど、色々な部門の方を通訳する機会に恵まれましたが、トップの領域に達している方ほど謙虚なのです。決して偉ぶらず、気配りがあり、どなたに対しても丁寧で、「周りから学ぼう」という気持ちにあふれています。

もちろん、実力養成のための負けず嫌い精神も悪いわけではありません。「あのライバルには何としても勝ちたい!」という気持ちは、本人をやる気にさせます。私も高校時代に「あの子より良い点を取りたい」と思ったことが何度かありました。部活が忙しく、遠距離通学でも、その強い気持ちが私を机に向かわせたのです。人間として未熟の時期であれば、そんな闘争心も健全な方向に向けば良いのかもしれません。

けれども大学生や社会人になり、世の中で責任ある行動を求められるようになれば、拙いライバル心を表に出すことはかえって幼稚に見えてしまいます。たとえば何かの大会やコンクールに出たとしましょう。最大限の準備をして臨み、きっと自分は入選できる、いや、もしかしたらトップの座につけるかもしれないという密かな期待を抱きます。けれども結果が思い通りにならなかった時、どんな思いを人は抱くのでしょうか?

「あの人よりも自分の方が上手だったのに」「本当は自分がトップのはず」という悔しさが出てくるかもしれません。それも分かります。けれども二十歳を超えて分別ある大人の仲間入りをしている以上、それを口に出すのはやはり憚られます。むしろなぜ自分はそこ止まりであったか、優勝した人の勝因は何かを冷静に考える方が次につながります。

学生時代に通っていた英語塾の先生が、こう述べていました。

「英検1級を取った途端に英語力は落ちる」

当時はTOEICでなく英検が主流でした。私は「英検1級を取った人こそ最高の英語の使い手であり続ける」と思っていたのです。けれども恩師によれば、1級を突破したことで慢心してしまい、勉強に身が入らなくなるというのです。以来、私は勉強や仕事で気合を失いそうになると、この一言を思い出しています。

そういえば中学時代、私はこんな経験があります。当時私はイギリスから帰国したばかりで地元の中学校に編入しました。その時の英語テストで次のような問題が出たのです。

彼はそれをしなければならないだろう。

He ( )( )( ) do it.

私は次のように回答しました。

He ( has )( got )(  to ) do it.

しかしこれはバツだったのです。正解はHe (will) (have) (to) do it.でした。

「え~、イギリス英語ではこう言うのに~。これさえ合っていたらホントは100点取れたのに」というのが最初の印象です。けれども間違いは間違いなのですね。その時思ったのは「いくら自分が正しいと感じても、それは主観的なもの。学ぶべき点があれば学ばねばならない」というものでした。この時の経験は今でも強烈に覚えています。

この1年を振り返ってみると、積み残してきたことが私自身、たくさんあります。そうした事実を見つめ、直すべき点は謙虚に修正していく。そんな気持ちを抱きながら新年を迎えたいと思っています。

(2013年1月14日)

【今週の一冊】

「ほんとうにいいの?デジタル教科書」新井紀子著、岩波ブックレット、2012年

現在、小学校では様々な分野でのデジタル化が進んでいる。電子黒板が導入され、子どもたちは先生の板書だけでなく、画面に映し出されたものを見るようになった。スクリーン上に特製ペンで印をつけたり、消しゴムなるもので消したりする機能もある。模造紙や黒板がフル活用された世代の私にとっては隔世の感がある。

私自身は紙の効用を非常に感じている。もちろんデジタルの良さも分かってはいるが、まだ学問を修め始めたばかりの小学生にデジタル教科書は時期尚早だと考える。著者の新井氏も述べる通り、むしろ内容が複雑かつ多量となる高校生レベルでの導入を優先すべきだと思う。

本書はデジタル教科書とは何なのかの定義から始まり、公平な議論を展開するために客観的な見方で筆を進めている。長所と短所を見据え、なぜそもそもデジタル教科書が唱えられたかという示唆も興味深い。

中でも印象的だったのは次の一節である。

「読者の多くは、複数の資料を広げて一覧できる状態で相互参照しつつ学んだ経験があるだろう。もし、机がA4サイズしかなく、教科書と教材を『重ねて』置かなければならなかったとしたら、非常な不便を感じるのではないだろうか。」

デジタル化の長所は、素早く多様な情報にアクセスできることである。リンクをたどり、どんどんリサーチが可能だからだ。しかし、著者が述べる通り、デジタル画面というのはサイズが決まっており、しかも一つ一つの情報を重ねて表示するという特性がある。

一方、子ども、特に年齢の幼い子ほど、遊びの世界では一つの玩具からどんどん広がり、床一面に展開するという様子が見られる。小学生の段階であれば、机に教科書や資料などを広げて置くことで物事を俯瞰することもとても大切だと私は思う。

初等教育の現場でデジタル化を促進するだけで、子どもの学力が急速に回復すると考えるのは短絡的である。また、景気後退に見舞われた日本の産業振興のためだけに、教育を「手段」にしてはならないと私は考える。一人一人がこの問題をしっかりととらえ、さらなる議論が必要だと思う。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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