INTERPRETATION

第95回 目を配る、ということ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「先生、通訳のときどうしたらすぐに訳語が出てきますか?」

指導の場でこのような質問をよく受けます。「英語を聞いて頭では理解できた。状況もビジュアルライズできる。でもすぐに日本語が出ない」という悩みです。即応力や瞬発力を課題としている受講生は少なくありません。

これを乗り越える上で大事なのは、日ごろの生活にあると私は思っています。中でも大切なのが、「とにかく自分からコミュニケーションを取る」という点です。

今の時代、起床から就寝まで、一言も話さずに暮らそうと思えばできてしまいます。朝目が覚めたらフェイスブックにコメントを書く、通勤時には駅の自動改札を通る、会社では同じ部内からの連絡もメールで返す、帰り道に立ち寄ったスーパーではセルフレジを使う、帰宅後には欲しかった本をネットショップで取り寄せるなどなど。直接誰かを相手にしなくても生活することは不可能ではないのです。職場での業務がコンピュータ相手であれば、ますます「自ら口を開いて話す」という時間は減ってしまいます。

そのような時代だからこそ、主体的に「話す」ことを心がけるのが通訳訓練にもつながるのです。私は「人とコミュニケーションを図ること」も自らの通訳力に大切だととらえています。ですので、駅のキオスクやスーパーで買い物する際にも、「お願いします」「お世話様でした」という気持ちは必ず伝えるようにしています。通訳力向上という自己的な理由だけではありません。相手からサービスを受けるのであれば、たとえ自分がお客様でお金を払う立場であっても、「礼儀」として感謝の気持ちを伝えるというのは社会人として必要なマナーだと信じているからです。

英語は「資格試験の点数向上のための目的」となってはいけません。あくまでも「コミュニケーションの道具」です。それを使って何を知りたいのか、知ったことをどう自分の中で消化するのか。そして人間として自ら成長し、それを社会にどう還元していけるか。そこまで考えるのが英語学習だと私は思います。完璧な英語力を目指すべく「英語を自分だけの宝物にする」のではないのです。「今、手にしている英語という『自分の資産』をどうすれば世の中のお役に立てるのか」を考え続けること。それが英語の勉強だと私は考えます。

通訳デビューをして数年たったころ、ある大手企業のレセプション通訳を依頼されました。担当するのはその企業の社長さんです。会場のホテル宴会場には大きな丸テーブルがあり、トップの方の周りにはご来賓のみなさんが着席なさっていました。社長さんの後ろには通訳者用のイスが用意され、私はすぐに通訳できるよう待機していたのです。

その時のことは今でもはっきりと覚えています。というのもその社長さんは、一通訳者の私に対しても必ず名前で呼びかけてくださり、「ちゃんとお食事は召し上がりましたか?」と裏方通訳者の夕食にまで気を配っていらしたのです。さらに、料理が運ばれるたびに会話の途中でもウェイターさんを見上げ、「どうもありがとう」ときちんと述べておられました。この企業がなぜ日本のトップ企業であるか、私は社長さんのあり方を拝見して理由がわかったのです。

目を配る、気を遣うということは、生きていくうえでとても大切なことです。これは通訳現場に限らず、どの場面でも当てはまります。デジタル化時代の今、機械が一見やっているようなことも、その背後には必ず人がいます。そうした「影の努力」を続ける人に感謝すること。そして人間関係を築くツールである「言葉」を通じてその気持ちを表すこと。実はその積み重ねが、人のコミュニケーション能力を高めます。

その蓄積があって初めて、通訳者に必要な即応力や瞬発力も身に付く、と私は思うのです。

(2012年11月26日)

【今週の一冊】

「ガレキ」丸山佑介著、ワニブックス、2012年

私は元々書店に行くのが好きで、時間さえあれば立ち寄るようにしている。それで最近ふと思ったことがある。「震災関連の書籍が減った」と。

2011年は書名も雑誌の見出しも地震関連のものが多かった。今年の3月11日も「1年後」ということで、テレビを始め色々なメディアで取り上げられていた。でも今はどうだろう?書店の棚を見ればグルメやダイエット、自己実現といった、あくまでも「自分の夢を達成する」的な内容が目立つ。「痩せてきれいになりたい」「おいしいものを食べたい」「仕事で成功したい」という気持ちは人間が本能的に持つものだ。でも本当にこれで良いのだろうか?

そのような感情を抱いていた時に出会ったのが、今回ご紹介する一冊である。本書は東日本大震災で発生したガレキの受け入れを大きなテーマとしている。ガレキの広域処理は全国的な反響を呼び、受け入れた自治体もあれば拒否したところもある。激しい反対運動も起きた。そうした課題を著者が複数の関係者にインタビューし、まとめたのがこの書籍である。

かつてイギリスに暮らしていた頃、何か新たな施設が計画されるとNIMBY (not in my backyard)の態度が国民の間で生じた。「総論では建設賛成。でもうちの近くはやめてよね」という考えである。今回のガレキ問題も日本人特有の反応ではなく、おそらくどのような国であっても似たような状況に陥ったと思う。

ただ大事なのは、「自分が当事者だったら」と思いをはせることだと私は考える。もし私が被災地に暮らす人間だったら、もし私がすべてを失っていたらと思うと、そう容易に「反対」など私は口にできない。長期的に見てより良い社会の実現に結びつくならば、誰もが少しずつ痛みを分かち合うことが必要だからだ。

被災した自治体のトップや被災地の方々などが「絆とは何か」に答えているのが心に響いた。1年8か月たった今だからこそ、あえて本書を紹介したい。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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