第470回 なぜ通訳を続けてきたか
通訳の仕事というのは、事前準備がすべてと言っても過言ではありません。エージェントから「〇月〇日、△△のテーマで同時通訳をお願いします」というメール連絡が来ると、そこで試合のゴングが鳴るわけなのですね。
「喜んでお引き受けしたく存じます」と返信して送信ボタンを押したら、さあ、準備開始となるのです。
自分はそのテーマを知っているか?どのような資料を先方から頂けるのか?未知の分野であればどこから手を付けるか?単語リストをいつ作成するか?関連動画はないか?難しいなら子供向け百科事典から始めるか?登壇者の動画はないか?学術論文はGoogle Scholarに掲載されているか?翻訳本はないか?
などなどなどなど・・・。
書き始めるとエンドレスになるぐらい、準備項目はあるのです。つまり、「終わりのない受験勉強」という感じです。
とはいえ、当日までの時間にも限りがありますし、24時間、寝ずに準備をし続けるというわけにもいきません。体力が持ちません。
他の仕事もありますし、家事やプライベートの諸々の事もあります。ですので、どこで自分なりに線引きをするか、どう折り合いをつけるか。
言葉は悪いですが、
「どの部分までの勉強をもって自分を妥協させるか」
というのがこの仕事の特色なのですね。
「本当はもっと予習しないといけない。予習したいと思っている自分がいる。でももう間に合わない。これ以上無理!」
といった思いを抱きながら、そして緊張した気持ちを持って当日になると会場へ赴くわけです。もちろん、通訳者にもよると思いますが、私など心配性ですので、「こんな準備で良かったのだろうか?」といつも不安感に見舞われます。「この程度の予習でお客様のお役に立てなかったら申し訳ない」といったモヤモヤ感を抱きながら向かうのですね。
もちろん、プロとしてお金を頂戴しているわけですから、いざ会場に入ったら、そのような不安や恐怖心は一切表に出してはいけません。それはそれで私自身、割り切り、堂々とふるまいます。たとえて言うなら、オペラ歌手やピアニストがどれだけ本番前に緊張していたとしても、「自分は精一杯練習した。あとは本番でベストを尽くそう」と思うのと同一なのですね。
「通訳の仕事をしています」とお伝えすると「わあ、英語ができるんですね」「かっこいいですね」といったお言葉を頂戴することがときどきあります。けれども通訳者のココロの中はと言うと、私だけなのかもしれませんが、緊張感や恐怖心、不安感とドキドキ感に常に押しつぶされそうになりつつ、仕事に立ち向かっているのです。
そして渾身の力を振り絞って業務を終え、お客様に「ありがとう」と感謝の言葉を頂くと、「ああ、頑張って良かった」と思うのですね。
業務終了直後に、「お役に立てた」という実感を一瞬でも味わえるからこそ、心拍数や血圧が上がろうともこの仕事を続けてこられたのかもしれません。
(2020年12月1日)
【今週の一冊】
「発達障害グレーゾーン」姫野桂著、扶桑社新書、2019年
近年、「発達障害」ということばが色々なところで使われるようになり、私たち一般市民にとっても馴染みのある語となってきました。思い返せば私が子どもの頃など、近所に「ちょっと変わった子」がいたとしても、友達同士の間で「なんかちょっと違うよね」という程度で済んでいたのですね。当時はそういう時代でした。
しかし、時代というのは変わります。今や物事すべてが慌ただしくなり、SNSが発達して便利になった傍ら、何もかもがスピードを求められたり「正解」が要求されたりする昨今です。昭和のような「のんびりペース」「余韻や余地がある生き方」というのが、なかなか認められない状況なのだと感じています。
本書は著者の姫野さん自身が発達障害グレーゾーンであると告白しています。「グレーゾーン」とは、医師に診察をしてもらっても「発達障害」という診断を下してもらえない状況を指します。診断書がおりれば、それを持って就職先や学校に自ら告知して、配慮を仰ぐこともできます。けれども、発達障害用の検査をしても、発達障害自体にあてはまらないケースの人というのもいるのです。そのような方々にとってはカミングアウトもできず、さりとて配慮もしてもらえず、非常に辛い思いをしながら、このせかせかした世の中で生きていかなければいけないのです。
私は本書を読むまで、発達障害自体への理解が無かったことに気づかされました。特に発達障害グレーゾーンの人たちは、家の外では何とかきちんとしてふるまわねばと必死になる分、通常の人の何倍も疲労に見舞われるそうです。繊細な部分がある分、たとえば物音や人混みなどにさらされるだけで、ドッと疲れてしまうのですね。ゆえにそうした疲労からケアレスミスが生じたり、片付けをする気力すら生まれなかったりという状況になってしまうのです。
「インクルーシブな社会」と最近は企業でも謳われています。差別や偏見をやめ、誰もが働き、生きていける社会をめざそうという考えです。発達障害グレーゾーンの人々への理解が、本書を読むことで非常に高まると思います。すべての人に読んでほしい一冊です。
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