INTERPRETATION

第453回 計画を立てるということ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「『通訳者になりたい!』と私の場合、強烈に思ったわけでもないなあ。」

実は最近、そのように振り返っています。高校時代に憧れていたのは、旅関連の仕事と「書く仕事」でしたし、そもそも「会議通訳者」といったものがあることすら、知りませんでした。テレビの歌謡番組で海外アーティストが出演すると、その背後でささやきながら通訳をしている人を見たぐらいです。よって、学生時代から「通訳者になる」と決めていたのではありませんでした。

ちなみに高校時代は帰国生の多い学校でしたので、英語の授業もレベルが高いものでした。しかし、大学に入ると私にとっては英語クラスが物足りなくなってしまったのですね。そこで他学部の授業を探したところ、何やら難しそうな「通訳」なる授業があることを発見。そこで履修したのが私と通訳の出会いだったのです。

いざ受け始めてみると、教材のレベルは高いわ、分厚い単語辞典から大量のテストは毎週出るわ、英字新聞からもテストされるわと、とにかく忙しくて厳しいクラスでした。「大変な世界に入り込んでしまった」と思ったものです。しかも履修生の多くは英語学科の学生たち。社会学科からは私だけでした。周囲がとてつもなくできる学生たちでしたので、自分の不出来がみじめに思えましたね。

それでも英語「を」学ぶのではなく、英語「で」様々な世界を知ることは私にとって非常に刺激的でした。そして先生が教えておられた外部の通訳学校にも通うようになりました。卒業後も会社勤めをしながら週末に通学し続けたのです。

通訳の世界は確かに興味深いものでした。けれども心の中ではまだ何となく「英語屋さん」というイメージがあったのですね。ちょうどそのころ、大学院で研究したいテーマも出てきたのと、どうしても海外で暮らしたいという思いが募ったため、ギアチェンジして留学をすることにしました。

さて、意気揚々と帰国した私は、そのまま研究職に就こうと思いました。しかし当時の日本の学術界はまだ閉鎖的な時代。たまたま帰国の挨拶をしに伺った通訳学校の恩師に「忙しいから手伝って」と言われたのがきっかけで、この世界に本格的に入ったのでした。

こうして振り返ってみると、私の場合、「通訳者になりたい」という大目標を決めていたわけではありません。ビジネス書などを読むと、「大目標を決めたらその実現したい日付を設定して、長期・中期・短期・日々の目標を決めるべし」といったことが書かれていますよね。けれども、「必ずしもそうはならないなあ」というのが私の経験から得たホンネです。

ところで私は日記を書くのが好きです。家族の備忘録も残したいと思い、ずいぶん前から「5年日記」もつけています。2008年から始めて今は3代目。現在記している日記帳の初年度は2018年です。

2年前、そして去年、自分が書いたことを読み直してみると、色々な記憶がよみがえってきます。と同時に、当時悩んでいたことが今は解決されていたり、その反面、あのころは想像もしていなかった課題に現在直面していたりもします。家族たりとて、それぞれ感情を持った人間が同じ屋根の下でひしめき合っているわけですから、私一人だけで物事が進むわけではありません。当たり前ですよね。

ゆえに、こと家族に関してビジネスの売り上げ目標のような感じで「大目標」や「計画」を考えすぎてしまうのは、ちょっと違うのではないかなと最近の私は思っています。必ずしもその通りに行くとは限らないからです。

先日読んだ新聞記事に「コロナで家にこもりっきりになった子どもたちがゲーム三昧になってしまった」とありました。ゲームやスマホの依存性というのは本当に問題だと私も思います。でもそうした部分「だけ」を見過ぎてしまって、「この子は将来依存症になってしまう」「ヒキコモリになるかも」などと周囲が想像し過ぎてしまうと、かえって先が見えなくなるのではないか、とも思えるのです。

このコラムを読んでくださる方の中には、通訳の仕事と家庭のバランスで大変苦労されておられるケースもあると思います。でも、あまり先を心配し過ぎたり、壮大な計画を立て過ぎたりすると、うまく行かなかった場合、自分がかえってダメージを受けてしまうと思うのですね。

だからこそ、目の前の「今」をとにかく大事にして、その瞬間瞬間で「最善策」を編み出すのが一番良いのかな、と私は最近感じます。10代後半になった子どもたちを目の前にして、とりわけその思いが強くなっています。

少しでも参考になれば嬉しいです。

(2020年7月28日)

【今週の一冊】

「還暦からの底力」出口治明著、講談社現代新書、2020年

目下、大ベストセラーになっている立命館アジア太平洋大学学長・出口治明学長の新刊。もとは生命保険会社勤務であった出口氏ですが、たくさんの本を読み、旅をし、人生について考えてこられたことが、この一冊には集約されています。

私が出口氏のことを初めて知ったのは、NHK-Eテレの「SWITCH インタビュー達人たち」という番組でした。たまたま見たのですが、ミムラさんとの対談がとても興味深く、本をこよなく愛するお二人のお人柄が伝わってきたのです。以来、注目するようになりました。

中でも印象的だったのは、好きなことを堂々として生きていく大切さを説いておられる点です。44ページには「『変態オタク系』が育つ教育を」という小見出しが掲げられています。数学が好きな子には徹底的に数学を学べるようにさせ、ゲーム好きであればゲームをさせよ、という内容です。人と違っていても良い。むしろそれが強みになる、という発想です。

次の文章も励まされました:

「何より自分が見ているのだから、人に評価されたい気持ちなどは捨てて、自分がいいと思ったことに全力で取り組めばいい」(p67)

私はこの考えに強く共感します。私の場合、安定した会社員生活に別れを告げたのが今から数十年前。以来、フリーランスで収入不安定な環境ではありますが、好きな通訳業・講師業を続けて今に至っています。体さえ丈夫であれば何とかなる、という気持ちなのですね。全力で取り組めばそれで充分、という思いがあります。

一方、人間関係については、こう述べておられます:

「自分にアクセスしてくる人は、自分のことを面白いと思ってくれているのだから、ありがたいと思って受け入れる。自分から去るということは、その人にとって自分は魅力がないということなので、追いかけても仕方がない。」(p85)

出口氏はすでに70歳を超えておられますが、家族観についても非常に進歩的です:

「家族についても、自分と一緒にいて楽しいと思ってくれればよい関係が続いていくし、楽しくないと感じれば去っていくだけの話だと思います。」(p89)

出口氏がこの本で一番伝えたかったのは、おそらく「人生は一度きり。だからこそ、納得のいく道を歩むべし」というものだと思います。ゆえにこの本は多くの方々の共感を得て、6月の書店総合ランキングで第1位になったのでしょう。「還暦」という年齢にとらわれることなく、多くの方に読んでいただきたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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