INTERPRETATION

第448回 恩師

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

大学の学部時代に私は海外留学に憧れていました。けれども当時は今と比べて交換留学の枠が非常に少ない時代。「帰国子女は応募できない」というしばりがありました。ゆえに余計、留学への思いは強かったのだと思います。中学2年でイギリスから帰国して以来、ずっと日本暮らしが続いていたこともあり、早くまた海外で長期間生活したいと思っていました。

大卒後に念願叶って入った会社生活も、やがて自分の中では留学熱に取って代わられる始末。でも親に学費を頼むのは申し訳ないとの思いから、その後、4年間貯金に励み、留学に備えました。転職した職場で「企業による寄付活動」に携わったこともあり、これを大学院のテーマにしようと考えたのです。

色々と調べた結果、出願先をアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に定めました。その分野の専門教授がいらしたからです。フィランソロピー活動に私自身、転職後にすでに数年間携わっていましたので、「絶対合格できるはず!」と根拠のない自信を持って応募したのでした。

ところが結果は「不合格」。おそらく私の出願理由のエッセイが、説得力不足だったのでしょう。単なる「留学へのあこがれ」だけで綴った薄っぺらい志望動機を見破られたのかもしれません。「ま、アメリカの修士課程は2年間でお金もかかるし、車社会だからペーパードライバーの私には不向きよね」と妙な負け惜しみを言いつつ、変わり身の早さで(?)次の志望先を探したのでした。

そこで見つかったのが、ロンドン大学LSEでした。経済や社会科学が強いとされる大学です。幸い修学期間は9か月で学費もアメリカの半分以下。幼少期に暮らしていたイギリスにまた行けるとばかり、「今度こそは」としっかり出願理由を書き、幸いなことに合格通知を頂きました。

ところがいざ入学してみると、初日にして自分の自信は打ち砕かれたのです。留学前の私は仕事で英語を「しゃべって」はいました。けれども話し言葉と学術界に求められる英語はまったく異なります。「学術論文を読んでもちんぷんかんぷん。専門的な用語の飛び交う授業では討論にまったく入り込めない。日本の事情を説明しようにも、実は大して日本のことを知っていなかった」という状況でした。自分が情けなくなり、「なんでこんな大変な場所に来てしまったんだろう?」と落ち込みました。イギリスの暗い冬の到来も重なり、鬱々としてしまいました。

イギリスの大学院の授業は、登録こそすれども出席は任意です。一方、絶対に外せないのがtutorialと言われる論文指導教官との一対一の面接授業。極端な話、チュートリアルだけ出て、レクチャー形式の授業はすべて欠席でもおとがめはありません。大学院生の最終目標は論文を書き上げることだからです。私の場合、論文に耐えうるような英文すら書けず、ミニ・レポートを提出しても指導教官が文法や用語の間違いを赤で直すという、そんな状況でした。「こんなテイタラクで最終論文など果たして書き上げられるのだろうか?」と考えると、ますます気が滅入りました。

ちょうどそのころ受講していた科目の一つがSocial Policyで、少人数のクラスでした。指導教官はRobert Pinker教授。英国紳士の雰囲気が漂い、どの学生にも分け隔てなく穏やかな口調で接してくださる先生でした。

イギリスの大学教授というのは実に多忙です。日本以上に学術功績が求められ、論文や書籍の執筆、外部の講演会などをこなして初めて学者として認められます。たとえ大学講師の座に就いたとて、自動的に講師から教授に昇進できるものでもありません。ゆえに、私が当時受講していたLSEの先生方はいつも忙しそうで、とても相談をしに研究室まで行くなどできない、実に近寄りがたい雰囲気がありました。

けれどもピンカー教授は違いました。「もう八方ふさがり!」と思っていた私はある日、授業の後に意を決して教授に「相談に乗っていただきたい」と声をかけたのです。すると先生はすぐに研究室に私を迎えてくださり、一通り私の話に耳を傾けてくださいました。「日本から留学しに来た。でも授業にはついて行けない。このまま修士課程を終える自信はない」と私は訴えたのです。

先生はじっくりと私の話を聞いてくださり、大いに共感してくださいました。そして本棚から一冊の本を取り出して、こうおっしゃったのです。

「この本は私には読めませんが、多分サナエの母語である日本語だと思います。イギリスの社会政策について書かれているはずです。返却は急ぎませんから、これを読んでごらんなさい。」

手渡された書籍の日本語タイトルを見た私は、涙が出そうになりました。今のようにインターネットなど無い時代です。あまりにも久しぶりに見た日本語の活字に私は改めて、「自分は地理的に遠方に来てしまった」と感じました。と同時に、「この一冊さえきちんと読めば、授業についていけるようになるかもしれない」と勇気が湧いてきたのです。

その後、ピンカー先生は事あるごとに私のことを気にかけてくださいました。お陰で私は無事にLSEを終えられました。それから10年ほど経った頃、私はふと先生のことを思い出し、「あの時はお世話になりました」と突然お手紙を差し上げてみたのです。するとすぐに返事が届きました。「もちろん、あなたのことはよく覚えていますよ」と。

このとき私は、真の教育者の姿を見たと思いました。

今、この原稿を書くにあたって改めてピンカー先生のことをWikipediaで調べたところ、先生は1994年に奥様を亡くされていたそうです。94年7月に私はLSEを卒業しています。当時、先生がそのようなご苦労をされていたとは。

すでにLSEは退官されていますが、先生のご著書は今なおイギリスの社会政策においてバイブルのような位置づけです。「社会福祉三つのモデル」というタイトルで日本語にも翻訳されています。

先生のような教育者・人格者に巡り合うことができて、幸せだと私は思っています。

(2020年6月16日)

【今週の一冊】

「百万都市を俯瞰する 江戸の間取り」安藤優一郎著、彩図社、2020年

昔から古い建物が好きな私にとって、地図を元に建物の歴史を振り返るというのはとても興味が沸きます。今回ご紹介するのは、まさにそうした視点からとらえた一冊です。江戸城を始め、病院(養生所)や武家屋敷などを住宅の「間取り」から解説しています。本書を読み進めるにつれ、江戸の町がいかに発展していったかがわかります。

お城の間取りもたくさんあり、もちろん惹かれはします。けれども個人的に興味を抱いたのは、庶民の生活に基づいた建物です。たとえば第三章に出ていたのは「湯屋」。銭湯のことです。

著者・安藤氏の説明を読むと、江戸時代になぜ銭湯が発展したかの理由として、火事への恐れ、燃料の薪が高かったこと、水が不足していたことが挙げられています。確かに木造家屋で密集していた江戸の町において、火災は非常に怖いものであったことでしょう。

幕末の頃には一町あたり2軒の銭湯があったのだそうです。また、入湯料はかけ蕎麦の半額であったとのこと。ゆえに人々は毎日通えたと書かれていました。また、女湯で女性同士が喧嘩をしている歌川芳幾の浮世絵も掲載されています。庶民の生活を垣間見ることのできる浮世絵です。

江戸時代の建物のいくつかは、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に移築されており、本書にはその写真も掲載されています。建物に興味のある方、歴史に関心のある方にぜひ読んでいただきたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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