INTERPRETATION

第445回 その先の大きな目標

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者というのは好奇心旺盛です。私の周りの先輩や同僚を見渡してみると、みなさん勉強が大好きで、未知の分野についても積極的に学ぼうという意欲をお持ちです。そうした方々と仕事で接点をいただくたびに、私自身、とても大きな刺激を受けています。人生には知らないことがまだたくさんあり、それらをひとつひとつ調べて自分自身が吸収するというのは、生きる上で大きなチカラになると感じます。

通訳者はある意味、「職人」です。たとえば陶芸家が毎日作陶することで、勘を維持するのに似ています。通訳者の場合、少しでも勉強をさぼってしまったり、リサーチへの手間を省いたりしてしまえば、あっという間に腕は落ちます。ゆえに、毎日シャドーイングをしたりひたすら本を読んだりという具合に、様々なトレーニングを続けます。

こうして確立された「マイ・トレーニング・メニュー」は通訳者一人一人異なります。私の場合、「起床後のAFNシャドーイング+そのニュースに出てきた単語調べ」が朝一番の日課です。以前は英字新聞を購入して記事の音読をしたり、スクラップをしたりもしていました。通訳者によっては、あえて単語リストをデータベース化したり、様々なソフトを使ったりして勉強に役立てることもあるでしょう。

ただ、私は最近、こと学習法については考えを変えつつあります。それは、「いったん決めたからとて、それ『だけ』を盲目的に信じて自分を縛らなくても良い」ということです。具体的に説明します。

たとえば、通訳トレーニングの一環として、毎日音読をしているとしましょう。「最近、英語が出づらくなったなあ。じゃ、音読を集中的にしてみよう」といったきっかけで始めてみると、なかなか効果があるようです。そこで毎日音読しようと決めます。手帳にチェックボックスを設けて「□音読」と書き込み、やるべきリストの中に組み込みます。

最初のうちは、音読自体が楽しくて毎日規則正しく続きます。けれどもある日を境に何となくダレてしまうも、手帳には「やるべきこと」として書かれています。そうなると、☑マークを入れるためにも音読をせざるを得ません。アタマでは「効果があるし、通訳者である以上、これをやらないといけない」とわかっています。でも、音読している瞬間は今一つ楽しめない。それどころか、「ちゃっちゃと終えたい。済ませたい」という思いでいっぱいになってしまっているのです。そしてようやく音読が終わり、「ふー、何とか終わった。✔マークも付けられてノルマ完了」となります。

技術力を維持するために、自分が得手でないことをし続けるのは大切です。でも、その行為自体が苦痛になってしまうと、「果たして自分に効果をもたらしてくれるのだろうか?」と疑問が頭をよぎります。そして心があちこちに漂流しながら、音読をこなすことになってしまいます。自分に喜びをもたらすはずの音読練習ではなくなり、ただただ「今日もこなしました」という事実を作るだけの「作業」と化してしまうのです。いくらチェックボックスに印が付いたとて、毎日苦痛の時間を過ごすだけの人生(大袈裟ですが)では身が持ちません。

たとえばサッカー選手を見てみると、大変なトレーニングをしています。得意でないトレーニングもあれば、厳しい暑さ寒さの中で行うものもあるはずです。けれどもその先には「試合に勝つ」という大きな目標があります。チームとしての共通目標です。そして勝つことにより、大きな大会の出場権を得られたり、ファンに喜んだりしてもらえるということが、選手たちにとってのモチベーションになります。

通訳者の自主トレにおいて、「お客様に喜んでいただく」という大目的を見失ってしまうと、日々の練習は単なる「こなしました事実」を作るためだけのものになってしまいます。お客様への奉仕どころか、ただ自分を苦しめるためのノルマと化すのです。

そうならないようにするためにも、常に「その先にある大きな目標」を意識していきたい、と私は思っています。

(2020年5月26日)

【今週の一冊】

「マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女」岡田温司著、中公新書、2005年

幼少期に通学したのが英国聖公会、高校はプロテスタント、大学はカトリック。私の学習環境には長らくキリスト教がありました。私自身はクリスチャンでは無いのですが、ここまでそうした状況下にありながら、宗教について何一つわかっていないことを痛感しています。とりわけそう感じるようになったのは、通訳者になってからです。なぜなら、キリスト教への理解があって初めて、英語の真の意味が分かるからです。

指導先の受講生たちには、「英語を上達したいのなら、聖書、ギリシャ神話、シェイクスピアは押さえておくように」と私は伝えています。けれどもその割には、私自身、まだまだ手付かずの状態です。自分の関心のある切り口から、英語理解へつなげていくためにも、学び続けねばと思っています。

今回ご紹介するのは、キリスト教に出てくる「マグダラのマリア」という人物です。聖母マリアと並び、キリスト教において非常に重要な役割を果たしています。もともと娼婦であったマリアは改心してキリストの磔や復活に立ち会います。そのテーマは絵画を始め、様々なところで描かれているのです。マグダラのマリアを理解することは、キリスト教への解釈へとつながり、それが西洋文明そのものを把握できることにつながるのだと思います。

もともと私は絵画が好きであることから、「絵」を通じてこのテーマを理解しようと、本書を手にしました。ページをめくると、絵画や彫刻を通じてマリアという人物が紹介されています。同じ画家でもマリアを全く異なる切り口で描いているのも興味深いところです。

これまで私は様々な場所で「マグダラのマリア」の名前を冠した学校名や教会を目にしてきました。たとえばオックスフォード大学にはMagdalen Collegeがあります(「モードリン・カレッジ」と発音)。由来はマグダラのマリアで、カレッジの正式名称はThe College of St Mary Magdalen in the University of Oxfordです。試しにグーグルマップでSt Mary Magdalen Churchと入力すると、たくさんの教会がヒットします。前職が何であれ(?)、マリア自身が改心をして列聖された、というところに意義があるのでしょう。

今回はかなりの斜め読みでしたが、書籍というのはそこからきっかけを得て、自分なりのテーマのリサーチにつなげていくことに意義がある、と私はとらえています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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