第432回 歩く・探す・直感を信じる
通訳の仕事をエージェントから依頼された段階で、私たちの業務は開始となります。現場で最高かつ完璧な通訳ができて当たり前。「準備も予習も給与のうち」という世界なのです。そういう意味では芸術家やスポーツ選手と似ていますよね。不甲斐ない試合やミスだらけの演奏をしておきつつも「練習では頑張ったんです」と言ったところで、結果がすべてだからです。当日に向けて体調を整える、遅刻をしないなどは言うまでもありません。
私はこの仕事を始めてから、日々のささやかなこともすべて通訳にとっては糧になると信じてきました。その思いは今も変わらぬどころか、年々強くなっているように感じます。物心ついた幼少期から今にいたるまで、見たこと聞いたこと経験したこと何一つ無駄にはなっていないのです。辛かったことも、逃げ出したくなるようなことも、すべてです。よって、今後もたとえ大変なことが人生に降りかかってきたとしても、この仕事を続けている限り、どこかでそれが役立つ・助けになると思っています。私自身の人生が、「通訳」という仕事によって支えられていると感じます。
そうした中、日々の生活でどのように物事を仕事につなげているかを今回は少しご紹介いたします。何かしら参考になれば幸いです。
(1)まずは外に出てみる
今の時代、ネットにつながりさえすれば外に出なくてもすべて知ることができる時代です。かつては書店や図書館に出かけて資料を探したり、専門家に電話をしてお知恵を拝借したりと、自分なりに歩いて動かねばならなかったのが私のデビュー当時の業界でした。しかし今や家から一歩も出ずとも手に入ります。本当にありがたい時代です。
これは体力的に助かる反面、新たな出会いとのチャンスは狭まってしまうと私は考えます。実際に外に出て刺激を受けて新たなアイデアやひらめきを得ることも大事だと思うのです。
(2)自分で探す
必要な資料や情報を探すという行為は、通訳者であれば誰もが取り組むことです。けれどもさらに大切なのは、もう一歩進めて探してみるということです。
これは通訳業務とは直接関係がないのですが、最近私はロマノフ王朝最後の皇帝・ニコライ2世に個人的な興味を抱いています。ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪れ、滋賀県の大津で巡査に斬りつけられる被害に遭っています。旅に出る前の私の事前知識は「滋賀→県庁所在地・大津→そう言えば日本史の授業で大津事件って習ったっけ」という程度でした。
そこから調べ始めるとどんどん広がっていきました。ニコライに織物を贈った川島織物(現・川島セルコン)のことや、当時の日本の司法制度など、未知のことがまだ沢山あることに気づかされたのです。そこでこれをきっかけに今度は日本の繊維業界や司法関連の歴史本を読んでみました。このようにして新たに読書を進めていくと、新たな歴史観や世界観に出会えます。「自分で探す」ことの醍醐味です。
(3)直感を信じる
リサーチ段階で「そう言えば・・・」と何か思いついた際に私は早めに調べるようにしています。時間に余裕があるときは、今取り組んでいることを中断してでも、それこそ「鉄は熱いうちに」ではありませんが、興味の冷めないうちに「ついでに」調べます。そうした直感というのは、何かにつながることが多いからです。最近もそれで個人的に嬉しかったことがありました。自宅で仕事の準備をしていたときのこと。今一つエンジンがかからなかったため、「では元気がでる音楽を」と動画サイトで探し始めたのですね。そのときふと思いついたのがPeter Ceteraです。彼はバブル期にヒット曲をたくさん打ち出し、日本でも大人気でした。「確か代表曲に”The Next Time I Fall”があったはず」と検索すると出てきました。「せっかくなので、歌詞も調べよう」と思い(←ここで既に仕事から大脱線ですが・・・)、ネットで探したらありました。
「誰が作った曲なのかしら?」とさらに興味が出てしまい、歌詞の下の方を見ると”B.Caldwell”とあります。私にとっては初耳の名前です。ウィキペディアで調べたところ「ボビー・コールドウェル」とあり、そう言えばこのカタカナ表記であれば見たことがありました。説明を読むと、ボズ・スキャッグスにも曲を提供したとあります。私はボズのライブに昨年5月に出かけており、もともと大好きなアーティストです。ここでつながりました。
「なるほど、ボビー・コールドウェルって実は有名だったのね。じゃ、チケットサイトの『お気に入りアーティスト』に名前だけ入れておこう」
こうしてチケットサイトにアクセスしていざ入力しようとすると、何と3月上旬に東京でライブが。これは行かねばと思い、即決・即買いしました。直感からどんどんつながっていったのです。
音楽や歌詞やライブが今すぐ即時性・即効性を持って通訳の仕事につながるわけではありません。けれども、こうして自分で歩き、探し、直感を信じることは毎日の暮らしに潤いをもたらしてくれます。それが私にとっては大きな糧となり、仕事へのモチベーションになっているのです。
(2020年2月18日)
【今週の一冊】
「異名・ニックネーム辞典」杉村喜光著、三省堂、2017年
本書を手に取るきっかけとなったのは、日経新聞の文化欄でした。大阪とモダニズムに関する連載が2月上旬の日経朝刊・最終ページに出ていたのです。カラー写真入りで大いに味わえるコラムでした。
その中で目に留まったのが「大阪は東洋のマンチェスター」という記述です。マンチェスターと言えば、産業革命の際に木綿工業が発展しましたよね。大阪も工業が栄えたことから、大阪のことを「東洋のマンチェスター」と呼ぶようになったのだそうです。初耳ゆえネットで調べたところ、この本の存在を知ったのでした。
本書は50音順にさまざまな名詞・人名・地名などが並んでおり、それぞれのニックネームが列記されています。どこから読んでも実に楽しく、飽きることがありません。
たとえば過日亡くなられた中曽根康弘元首相の異名が「風見鶏」だったのは有名ですよね。一方、「きのこのモーツアルト」とは何の食材でしょうか?答えは「トリュフ」。作曲家ロッシーニが好んだことから来たのだそうです。では「天ぷら男」は?これはチャップリンのことです。来日時に海老のてんぷらを36尾も食べ、翌日の新聞でこのように評されたのだそうです。
最後の一問。本コラムは通訳関連のサイト「ハイキャリア」に連載されていますので、次の問いは欠かせません。ということで、「同時通訳の神様」とはどなたでしょう?答えは2014年に亡くなられた國弘正雄先生。1969年のアポロ月面着陸で大活躍され、通訳界の黎明期を築き上げられた先生です。
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