第430回 美術館で改めて使命を考える
博物館や美術館が好きで、ときどき出かけます。有名な展覧会よりも、むしろ人混みがなく、じっくりと鑑賞できる方を好みます。
先日向かったのは上野の西洋美術館。1月26日まで展示されていた「内藤コレクション展 ゴシック写本の小宇宙」でした。
「写本」とは中世のヨーロッパ修道院において修道士たちが手書きで聖書の文言を書き写したものです。まだ印刷技術もない時代。獣皮紙が使われています。段落の頭文字のアルファベットに美しい装飾を施しているものをご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。
私はイギリスで暮らしていた小学校時代に、歴史の授業で装飾文字の課題が出されたことがありました。当時の私は英語が全くわからず、授業もついていけず、スポーツもからきしダメで完全な落ちこぼれでした。ある意味、クラス内の「お荷物」のような存在だったと思います。
そのような日々が続くなか、装飾文字の宿題で私はアルファベットの「A」を描きました。自分なりにあれこれと飾りをつけて提出。返却されたノートを見ると、先生が「A+」を付けて下さったのです。
日ごろは英語力不足ゆえ、そもそも提出課題には成績すらつかない状態でしたので、この評価は非常に自信になりました。歴史の先生は厳しい女性の先生でしたが、こうして「生徒の中にある長所を見出す」という姿は、今、指導をする私にとって大きな指針となっています。
さて、今回の美術展には「内藤コレクション」という名が付いています。これは筑波大学名誉教授・内藤裕史先生が西洋美術館に寄贈されたためです。内藤先生のご専門は中毒学なのですが、高校生のころから美術の世界に惹かれ、医師になられてからも頻繁に美術館巡りをされていたとパンフレットには書かれています。
先生はかつて絵を鑑賞中、「啓示のように」次の言葉を聞いたのだそうです:
「お前は十分、充電はして来ただろう、そろそろ、それを元に何かをまとめる時期にあるのではないか」
これをきっかけにコレクションを始められたそうです。まさに先生にとってはこれが「使命・天命」となったのです。
パンフレットから印象的だった文章をもう一つご紹介します:
「私は、美術品は人に観られてこそ価値が出る、秘蔵されている限り多くの人の心を美しく育てる美とはなりえない、秘蔵は死蔵であるという考えである。」
私はこの文章の「美術品」を「人の能力」ということばに置き換えて読みました。人間は誰もが何らかの役割をあてがわれて生まれてきたと思うからです。私は通訳の仕事以外、もはや考えられません。通訳業が好きであるからこそ、それがたとえささやかであれ、社会のお役に立てられればと思いながら日々を過ごしています。人は誰もがそれぞれ得手とするものがあり、それを「秘蔵」してしまうのはあまりにももったいないと思います。
写本に話を戻しましょう。
内藤先生はコレクションを続けるにあたり、著名な作品などよりもむしろ「中世の無名の画家の個性と才能に魅力を感じたら例えささやかなものでも落ち穂拾いのように買い求めた」と綴っておられます。この思想は、20世紀初めに民芸運動をおこし、朝鮮半島の日常品の中に美を見出した柳宗悦に通じると私は思います。
中毒学を専門とし、医師としての活動を続ける傍ら、貴重な作品を蒐集された内藤教授。それを私蔵するのではなく、後世のために美術館へ寄贈された姿に、私は大いに感銘を受けたのでした。「自分が今できることは何か?どのようにすれば社会のために生きることができるか?」という問いを投げかけられたように思います。
(2020年2月4日)
【今週の一冊】
「レトロとロマンを訪う 京都明治・大正地図本」鳥越一朗他著、ユニプラン、2013年
昨年末に高校ラグビー観戦のため、大阪・花園競技場へ出かけました。その日の夕方は京都へ。それには目的がありました。ここ最近私はロシア最後の皇帝・ニコライ2世への興味が高まっており、ゆかりの地を訪ねたかったのです。
ニコライ2世と言えば大津事件が有名です。皇帝になる前の当時のニコライ皇太子は、シベリア鉄道起工式のため、アジアを訪問していました。京都から日帰りで大津市へ立ち寄った際、警備をしていた巡査・津田三蔵に突然切り付けられたのが大津事件です。幸い命には別状はなかったものの、明治天皇までお見舞いにかけつけられたという、国際問題にまで発展しました。
ニコライ皇太子が当時、滞在していたのが常盤ホテル(現・京都ホテルオークラ)です。日本政府が用意した洋室よりも和室を好んだそうで、その和室は京都・八坂神社からさらに山を登った安養寺に現在は書院として保存されています。私はラグビー観戦後、この書院を観るために出かけたのでした。
駅観光案内所でバスマップもいただき、いざ目的地へ。ところが何を勘違いしたのか、地図上の「安養寺」とその少し北にある「安楽寺」を間違える始末!時刻はすでに夕方。諦めかけたのですが、滅多に来られないからとタクシーに乗り、無事安養寺に向かうことができました。
そのときタクシーの運転手さんに教えていただいたのが、安養寺の麓にある「長楽館」という洋館です。1909年、煙草王の村井吉兵衛が別邸として建てたそうで、現在はホテル・カフェ・レストランとして運営されています。タクシーの窓から眺めたレンガ造りの建物はとても美しく、一気に魅了された私は安養寺拝観後、カフェで休憩を取り、一日の疲れを癒すことができました。
本書にはこの長楽館を始め、京都のレトロ建物がマップ付きで紹介されています。カラー写真もあり地図もわかりやすく、「お寺以外の京都もエンジョイしたい!」という私のようなタイプの方には大いに楽しめる一冊です。同志社大学の創設者である新島襄・八重夫妻の特集が巻頭にはあり、こちらも読みごたえがあります。
幕末、レトロ建物、京都、カフェ巡りなど、様々な切り口から味わえる書籍です。
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